このような道内の墓のあり方に対して、市内の墓の発見例は、墓壙、副葬品ともに非常に貧弱であるといわざるを得ない。
石狩低地帯の遺跡の分布状況を巨視的に見ると、野幌丘陵東の江別市、そして恵庭、千歳方面に主要な遺跡が多い。恵庭、千歳方面は、明治初期に苫小牧市美々に鹿肉缶詰工場が建てられていたことや、明治十二年の大雪による鹿の大量死などからうかがえるように、積雪期になると積丹半島から日高方面への鹿の主要な移動経路にあたっており、先史時代にも動物性食料の入手に容易な地域であったと考えられる。
これに引きかえ、札幌は月寒台地のみが生活環境の良好な地であり、豊平川扇状地も形成中で、その前面が広大な湿地帯となっており、後背は奥深い手稲山を中心とする山地である。また、駒岡、清田、平岡、厚別などの丘陵地域は、基盤が支笏火山灰から成り、少しの雨でも浸食が著しく、地味のやせた土地で貧しい森林相である。そのため狩猟・漁撈・採集経済にあっては、動物質食料とともに重要な植物質食料の供給さえも安定していなかったのであろう。そのような地域では、食料獲得に追われ、副葬品となるような物質を生産する余剰労力を生みだすことが不可能であり、豊富な副葬品を持つ墓が出現しなかったと考えられる。
市内の後葉に多くの墓を残した人々の集落がどのあたりに営まれていたのか、後期同様に不明である。中葉の渡島半島の例では、同一台地上を集落と墓の領域に分けて使用し、後葉でも千歳市内の遺跡のように、傾斜面の下方から住居跡群が、上方から墓壙が発見される例もある。その他の多くの遺跡の例では、この両者が完全に分離されていたようである。この時期の集落の発掘例がきわめて稀であることは、集落の立地が後期と同様な地域に存在したともいえよう。