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渡党

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 長野県の諏訪神社に残る延文元年(一三五六)に成ったとされる『諏訪大明神絵詞』に、蝦夷カ千島に日ノモト、唐子、渡党の三類の人が群居しており、日ノ本、唐子の二類はその地が外国に連なり、形は夜叉のごとくで、禽獣魚肉を常食として五穀農耕を知らず言葉は通じないとあり、日ノ本は北海道東海岸に住むアイヌであり、唐子はカラフトを通じて大陸文化の影響をうけている北海道西海岸づたいのアイヌの人達と理解されている。渡党は鬢髪多く遍身に毛を生じているが、和国の人に相類し、言語は俚野(りや)であるが大半は通じ、宇曽利鶴子(ウソリケシ)や万堂宇満伊犬(マトウマイン)という小島にある渡党は多く、津軽の外ケ浜に来て交易しているとある。宇曽利鶴子は箱館の古名、万堂宇満伊犬は松前と理解されている。
 松前家代々の事蹟を記す『新羅之記録』によれば、「右大将頼朝卿進発して奥羽の泰衡を追討し御(たま)ひし節、糠部、津軽より人多く此国に逃げ渡って居住す……亦実朝将軍之代、強盗海賊の従類数十人搦め捕り、奥州外ケ浜に下し遣り、の嶋に追放せらる。渡党と云ふは渠等が末なり」(原漢文)とあり、その住む範囲は北海道の東海岸では陬川(ムカワ)(鵡川町)、西海岸は與依地(ヨイチ)(余市町)、おおむね石狩低地帯までとしている。ともかく鎌倉期以来道南に和人の居住者がふえていたといえる。