永正九年(一五一二)、宇須岸、志濃里、与倉前の三館が、ついで翌十年には松前の大館がアイヌ軍に攻め落とされ、館主らは皆、自害する。翌十一年蠣崎信広の子、光広は子の良広と共に館を大館に移し、蝦夷島の領主である檜山安東氏に使を派し、上之国の守護職から蝦夷島における安東氏の代官になり、蝦夷島唯一の現地支配者となって、これらの館を傘下に編成しつつ、諸国から来る商船や旅人から諸役の徴収を行い、またアイヌ民族の攻撃には策をもって対処しつつ、一方アイヌの翫好(がんこう)の宝物を支度しておいてこれを与えた。天文二十年(一五五一)「夷狄の商舶往来の法度」を定め、勢田内の「波志多犬(ハシタイン)」を上之国天ノ河の郡内に置いて西夷の「尹(いん)」とし、また志利内の「知蔣多犬(チコモタイン)」を東夷の尹として、西より来るアイヌの商船は天ノ河沖で、東より来るアイヌの商船は志利内の沖で帆を下げ休んで、一礼をして往還するようにし、これら「尹」には「夷役」として諸国の商人から徴する税の一部を与えてこれを懐柔した。勢田内は瀬棚、志利内は知内、天ノ河は上之国を流れる川であり、この範囲を和人地とし、蠣崎氏はこれを基盤に上之国を本拠に、アイヌとの紛争に一応の終止符をうち、政権樹立へ向け一歩前進したのである。