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豊臣秀吉の朱印状

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 天正十八年(一五九〇)七月、豊臣秀吉が小田原に北条氏を滅ぼし、ついで前田利家らを派して奥羽の地を検せしめた際、蠣崎慶広は津軽へ渡って利家に会い、安東実季の同意を得て上洛、秀吉に謁し、直接、秀吉の配下に属し諸侯並の待遇をうけることになった。翌年慶広は南部九戸政実の乱に参陣、ついで文禄二年(一五九三)正月、朝鮮攻略を開始し肥前名護屋の本営にある秀吉の下に参じて、志摩守に任じられ、蝦夷地支配権安堵の朱印状及び巣鷹献上による公逓の許可証を受けた。
松前、従諸方来船頭商人等、対夷人、同地下人、非分義不可申懸。並船役之事、自前々、如有来、可取之。自然此旨於相背族在之者、急度可言上、速可被加御誅罰者也。
  文禄二年正月五日 朱印
          蠣崎志摩守とのへ
(福山秘府)

 すなわち、諸方から来る船頭、商人のアイヌに対する非法な行為を禁ずると共に、従来よりの船役徴収権を秀吉から公認されたもので、この朱印状は他の大名の石高、本領安堵状とは異なるが、本質的には変わるものでなく、これにより慶広は安東氏の配下を脱して蝦夷島における支配者の地位を確立した。
 ついで、その夏東西のアイヌを呼び集め、御朱印を見せ、アイヌ語で読みきかせ、「志摩守の下知に違背し、諸国より往来の者某(シャモ)に対し夷猛悪の儀あるに於ては、速かに其旨趣を言上せしむ可し、関白殿数十万の人勢を差遣はし悉く夷を追伐せらる可きなり」(新羅之記録)と申し聞かせ、下知にそむくアイヌは国家権力への反抗であることを示した。