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鳥屋場知行

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 鷹は幕府への献上物でもあり、諸大名からの需要が多く、松前蝦夷地はその産地であり、他国藩から鷹匠の来藩もあり、その捕獲できる場所を知行として家臣にも分与していた。鳥屋場知行は寛永期に知行の一つとして定着したと見られているが『津軽一統志』によれば寛文期の鳥屋場数は三〇〇余、そのうち一二〇~一三〇の鳥屋は藩主の所有で残りが家臣の給分とされ、蝦夷地は、シコツ、イシカリが巣鷹の産地で、鷹場には、トカチ、ウンヘツ、マコマヘの名があげられている。しかし鳥屋の所在は明らかでない。『松前蝦夷記』には鳥屋数は三九〇カ所とあるが、すべての鷹場所で毎年鷹狩をするわけでないとされ、なお家中で鷹打をしたもので、「鷹のよろしきハ吟味いたし志摩守方え取上之、鷹の位ニより拾両二十両或三十両ニも買取」った。とにかく鷹は藩の財源の一つで、『津軽一統志』に、
 松前蔵分所務の事、御手船八、九艘の徳分一、二千両、鷹の代金一、二千両、年に応し候由。又沖ノ口百姓諸役金六百両余も出可申由。

とあり、鷹の収入が藩の大きな財源の一つであった。
 松前藩は毎年鷹船を蝦夷地に派したが、鷹匠、鷹待蝦夷地への進出はアイヌの生活ならびに狩猟の場を侵し、さらにアイヌに鷹送りの人足や鷹飼犬の提供を強要し(蝦夷蜂起)、アイヌの不満をさらにつのらせることになった。