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ハウカセの行動

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 寛文十年(一六七〇)六月、上方へ登る途次、風悪しくホロモイ(積丹町)に流れ着いた高岡のものだがとして、西蝦夷地について物聞した弘前藩士牧只右衛門ハウカセについての報告は左のようであった。
 ……石狩の蝦夷頭ハフカセと申候は、我々事は去年商船一艘も殺し不申候。何の悪事も不仕候。我等持分の内ましけにて一艘殺申候間、ましけの者はつくない出し申候共、我等は出し申間敷候。乍去近辺の夷仲間よりつくなひ出申候事に候はは、惣なみの事に候間、つくなひ出し申候共、与市、古平辺え罷出松前家来へ対面申事は成間敷候。又去年シャクシャインがことくにたまし寄殺(され)候ては如何のよし申、与市の蝦夷と同心不仕候。我等共はつくなひ出可申候と、松前え返事仕候……
 おしょろの澗にて与市の大将共申候は、去年二月、松前殿、石狩大将ハフカセ方へ通路(詞)の者被遣被仰候は、毎年商船差越申候得は押買仕、蝦夷共諸事我儘仕候に付、脇方え参商可仕の由申候へは、船も出し申間敷候。又我等共の商物も川え皆捨候へと申由。以来は商船舟差越申間敷由被仰越候へは、ハフカセ申分は、松前殿は松前の殿、我等は石狩の大将に候得は、松前殿に構可申様も無之候。又は松前殿も此方え構申義も成間敷候。商船此方え御越可被成も被成間敷にも別て構無御座候。惣て昔より蝦夷は米、酒不被下候。魚、鹿計被下、鹿の皮を身に着、たすかり申者に御座候。商船御越被成候義も御無用の由申、通路(詞)の者返し申候由。其上商船御越被成候はゝ、一人も通し申間鋪候由と、物語仕候事。

(津軽一統志 新北海道史 第七巻)