阿部屋の家伝である『石狩場所請負人村山家記録』(河野常吉資料 道図)によれば、初代村山伝兵衛は、能登国羽喰(咋)郡安部屋村(現石川県羽咋郡志賀町)の出身、寛文年中(一六六一~七二)に松前に渡り、それより宝永三年(一七〇六)には、ルルモッペ、ソウヤ場所を請負い、宝暦七年(一七五七)に七五歳で没したとある。しかし、この点には疑問が残るとされている。
さらに家伝には、藩士工藤八郎右衛門方に寄寓し、藩御船頭役馬形町古谷勘左衛門の娘れんを養母として土着したとある。これについては、工藤家が『蝦夷商賈聞書』(元文年間 一七三六~四〇)にトママイの知行主であり(当時はルルモッペを含む)、その関係で阿部屋がルルモッペ場所を請負った可能性もあり、古谷勘左衛門は、元文期の史料にその名があるし、娘のれんは、宝永四年(一七〇七)、藩主矩広の息女の局役として江戸に上った人物という伝えもある。これからすると、家伝の中の寛延三~宝暦五年(一七五〇~五五)の間ソウヤ、ルルモッペ場所を請負ったとする記録あたりから正確とみるむきもある(松前町史 通説編第一巻上)。
初代伝兵衛没後、養子理兵衛が事業を引継ぐが、まもなく養家を去ったため、イシカリ場所に深く関わりを持つにいたったのは、三代目伝兵衛からである。