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調査の目的

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 東蝦夷地が、享和二年(一八〇二)永久上知となり、松前藩は、西蝦夷地のみの経営および永久上知代価として年々三五〇〇両を賜うことになった。
 東蝦夷地の直轄後も松前藩が、蝦夷地対応策として何ら適切な措置をとることができないでいるうちに、文化元年(一八〇四)、ロシアの遣日全権使節レザノフが、先年ラクスマンが福山で受理した信牌をもとに通商を求めて長崎に来航した。翌年には、幕府から通商を拒絶されて長崎を出航、日本海を北上して蝦夷地沿岸に接近し、地理調査を行ってカムチャツカに帰港した。この時、レザノフの乗っていたクルーゼンシュテルン艦長の率いるナデジダ号は、測量しながら蝦夷地沿岸を航行、ことにイシカリ湾内を三日間にわたって調査し、またカラフト沿岸をも調査してこの方面の詳細な地図を作成したが、間宮海峡を発見するにはいたらなかった(クルウゼンシュテルン日本紀行)。
 文化二年四月二日、松前藩主章広は、ロシア船が突然蝦夷地近海に出没したことにより、シャリ・ソウヤ・カラフトを直轄し、テシオ以南を進退したき旨を申し出た。これを受けて幕府は、同年七月十六日、目付遠山金四郎景晋、勘定吟味役村垣左太夫定行に、西蝦夷地派遣につき準備方を命じた。一行は、閏八月十三日江戸を出発した。しかし、村垣定行は、病気のため一旦引き返し、翌春福山へ到着している。この調査の目的は、西蝦夷地を収公するための事前調査であった。