(1)『蝦夷地図』
本図は、写真4のごとくイシカリ川水系の流路の具合や地名を詳細に入れている。川名の記入は欠くがイシカリ川を遡ると、下流から順にハッサム川、フシコサッポロ川、サッポロ川、エベツ川がイシカリ川に合流している。しかも、ホロムイ山付近を源とするサッポロ川は、多くの支流を集めながらヌマウシの少し下流付近で二つの川に分流してフシコサッポロ川(旧サッポロ川)とサッポロ川(旧ツイシカリ川)となり、サッポロブトで、かたやツイシカリブトでそれぞれイシカリ川と合流している。このため、三本の川で囲まれた地帯はあたかも島のごとく描かれている。
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写真-4 蝦夷地図-部分-(津軽家史料 国立史料館蔵) |
またこの地図でみるに、サッポロ川が切れてツイシカリ川へ流れ込んだ場所がツイシカリ川の中流域の支流「ヌフルテツ」(ヌプロチペ=現野津幌川)および「フシコベツ」(ハシウシペッ=現厚別川)付近であり、そのツイシカリ川の上流には沼があるように描かれている。この沼が後世ツイシカリメムと呼ばれた沼だろう。
ところで、サッポロ川の本流でなくなったフシコサッポロ川はどうであろう。蛇行しながら北流し、ナイホ(ナイホウ)とモヘレヘツトウの二つの沼からの流れをそれぞれ集めて、シノロでコトニ川と合流して、イシカリ川に流れ込んでいるのがみられる。
(2)『イシカリ川之図』
本図は、写真5のごとくイシカリ川の河口から上流域サンケシにいたる流域を横長の一枚の地図におさめたもので、方位は河口を北に、サンケシを南にとっている。河川・山・原野・岩・通路は、それぞれ彩色をほどこし、両岸の状況は、注ぎ込む支流の名をはじめ、家々に「朱の丸」をほどこし集落を示している。本図はもともと場所請負人阿部屋に伝わるものであったので、阿部屋のイシカリ場所請負に関わる絵図であったと考えられる。
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写真-5 イシカリ川之図(札幌市立藻岩北小学校蔵) |
本図のサッポロ川の描き方は、(1)図(写真4)ほど精密ではないが、サッポロ川が「トイヒラ」の少し下流で二つに分流し、途中アシシヘツ川と合流してツイシカリ川に流れ、ツイシカリでイシカリ川に合流している。一方従来のサッポロ川(フシコサッポロ川)は、コトニ川、ナイホウから流れてくる川々を順に合わせ、サッポロ(サッポロブト)でイシカリ川と合流している。このため、新しくサッポロ川本流となったサッポロ川と、旧サッポロ川(フシコサッポロ川)とそれにイシカリ川と三本の川に囲まれた地帯は、(1)図と同様島のごとく描かれている。地図上の集落を示す「朱の丸」の位置は、現在の札幌市域付近の四河川沿いに次のように数個ずつ一一カ所点在している。
(3)『模地数里』
本図は、岳丈央斎著『模地数里』に描かれている「石狩川之図」である(写真6)。(2)図(写真5)と形も描き方も非常によく似ている。
写真-6 石狩川之図(模地数里 国立公文書館蔵)
本図の作者岳丈央斎は、文政元年(一八一八)四月、松前奉行本多淡路守の交替着任と同じくして福山入りしている。その時の往復日記である『陸奥日記』や、道中の名勝旧跡や目に触れた珍しい風物等を絵で添えた『模地数里』によれば、本図の原図は(2)図の阿部屋とみて誤りではないだろう。作者岳丈央斎は、偶然にも以前阿部屋村山伝兵衛のもとで働いていたという福山馬形(まかど)の坂本屋九兵衛の家に泊まり、そこで九兵衛の所持していた『石狩川之図』を模写させてもらったのが本図である。地名などもほぼ同一で、集落を示す「朱の丸」が多少省略されているくらいである。
このように、一九世紀のはじめにサッポロ川の流路が変わったことは、当時イシカリ場所の請負人であった阿部屋がもっとも知るところであり、(1)~(3)図のごとく地図の模写などを通してひろまっていったらしい。