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皆川周太夫

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 東蝦夷地が寛政十一年(一七九九)、幕府の仮直轄となった時、ユウフツに入植した屯田農兵八王子千人同心原半左衛門から幕府に願書が出された。それは、蝦夷地の内陸交通のルートを探るための調査を願い出たものであった。これを受けて翌年蝦夷地御用掛松平忠明は、原新助(半左衛門弟)の手付農夫の一人皆川周太夫らに実地踏査を命じた。
 皆川周太夫らは、寛政十二年八月十九日ユウフツを出発、九月十三日にトカチ川口オオツナイに入り、その川筋上流をきわめ、それよりサル川筋を見分してサル会所に出た。さらに隣のムカワ川筋を見分して、二十八日ユウフツよりシコツ越えしてイシカリ領サッポロに出、サッポロ川川筋をも見分、十一月二十一日にアブタに到着している。
 この三カ月にわたる内陸調査の結果、同年十二月、松平信濃守に復命書を提出、それには「阿武田より戸勝海辺迄工事見積」といった道路開削の計画書が添えられていた。この計画書によれば、アブタよりサッポロ川上流に出、それよりシコツ越えしてユウフツに出て、さらに東海岸をサル川口に進み、その川を遡ってトカチ川上流に出てトカチ川口に抜けるといった、全長一二〇里にもおよぶ道路開削が見積られていた(図1参照)。その計画書を仮に皆川計画と呼ぶことにして、具体的概要に触れてみよう。

図-1 皆川周太夫のアブタ・サッポロ・シコツ・サル・トカチ開削道路計画推定図

サツホロ川は石狩川口より三里程川上落合候。依て此川より石狩川を為登山越ニて戸勝川え牛馬ニて運送仕、戸勝川を海岸え下ケ候はゞシコツ通ヨリも里数も近ク格別弁理に可有之哉と奉存候共未見届不申地ニ候得ば慥成儀は難申上候。尤当時シコツ川通り御開発有之候共、後日石狩川御開発ニも相成候得ば、是も横往還ニ相成東西之通路宜、更に御不益之儀ニは有之間敷奉存候。
(郷土資料 今井村上氷鉋村中氷鉋村塩崎村五千石領主松平信濃守忠明ニ関スル文書)

 このように、皆川計画はアブタから内陸を通ってトカチへ抜けるコースに着目したのだった。このため、実際に踏査したアブタからサッポロ川上流に出る、いわゆるアブタ道(この呼び方は、飛驒屋伐木図にもある)を利用し、踏査はなされなかったがイシカリ川を遡ってさらにトカチ川へ抜けるコースを考案した模様である。一方、当時盛んになりつつあったシコツ越え道も、後日イシカリ川開発を行う時には横断道路、かつ東西交通路として役立つであろうと述べている。
 では、皆川計画の道路開削のための遠大なる工事見積りを実際にみてみよう。「阿武田より戸勝川口迄陸路川路」一二〇里間の工事見積りは、次のようであった。
   覚
蝦夷地[阿武田より十勝川口迄]陸路川路共牛馬陸付幷通船共相成候様流木取除道造方
一 延長百弐拾里
   此人夫四万三千弐百人 但壱町拾人懸
   此賃銭壱万弐千九百六拾貫文 但壱人三百文
   此金千九百九拾四両
   右人夫三百人程入都合宜場所え所々手分致し取掛り候て凡百五拾日程ニ出来之積

 これは、道路普請、流木取除の川ざらえを行い、牛馬や船の往来を可能にするための工事らしい。人夫三〇〇人ほどをい入れて、一五〇日ほどで完成させようというものである。さらに当座の御入用金高として、サッポロ川などの枝川〆切工事代、人夫小屋四軒、川船四〇艘、船頭四〇人、牛馬三二五疋、馬牽一〇〇人、泊家四カ所等々で四〇四〇両ほどを見積っている。
 ところで、皆川計画ではもし内陸路が完成したと仮定して、海上交通と比較したきわめて興味ある「新道川船運送積書付」を作成している。それによれば、
   覚
[アフタヨリサツホロ川上迄]  陸路弐拾三里  三日路
[サツホロ川上ヨリシコツベビ迄]  川路三拾四里  四日路
  [此内七歩通りは高瀬船通路可相成候]
[ベビヨリシコツ迄]  陸路弐里  半日路
[シコツベビヨリユウブツ迄]  川路六里  一日路

を含めたトカチ川末海辺まで、陸路四五里、六日半、川路八三里、九日半の計一二八里の新道方運送高は、銭七貫二〇〇文となる。これに対し、海上交通の場合は、「米百石ニ付片運賃六両此銭三拾九貫銭百三拾六文五分ニ当」り、「新道之方運送懸りを差引壱俵ニ付銭百三文五分ヅヽ新道之方高し」という結果となるが、「難船之愁無御座御弁理」と内陸交通の利点をあげている。
 寛政十二年、皆川周太夫が計画した東蝦夷地を横断する新道開削計画とは以上の内容であった。直轄領となった東蝦夷地を結ぶ海上交通に代わる陸上交通路として、アブタ―サッポロ川上流―シコツ川ルートが含まれていたのに注目しないわけにはいかない。