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改革にむけての動向

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 すでに述べたとおり、十月十八日に「石狩一件金助調出来、織部方へ出ス、同人附札ニテ廻シ有之」とあり、荒井金助の調査書を堀利熙も一覧し、これに附札をさげて村垣範正へ廻している。さらに、翌十九日には調査書が組頭へさげられている。また同日には、「(鈴木)尚太郎石狩、(村上)愛助北地、此度調之義ニ付増掛之儀、組頭ヨリ申達ス」とされている。これは箱館の調役鈴木尚太郎がイシカリ、村上愛助が北地(カラフト)の改革の担当者となり、現地詰の役人が作成した調査書を審議し、また不備・不明な点などの点検をおこなう増掛(ましかかり)に、組頭から両調役に下命されたとみられる。カラフトでは、この十一月に松川弁之助が直捌場所の支配人となるが、北地の問題とはこのことをさしており、イシカリの直捌の問題、すなわちイシカリ改革とならび、場所請負の廃止─直捌が箱館奉行の内部でも、着々と準備されていたのである。
 その後十一月三日にいたり、「イシカリ幷北地之調方出来申上」とあり、書類が三通調製されている。そのうち一通は江戸に送られ、一通は箱館奉行に控として収められ、残り一通は場所廻しとなっている。書類が江戸に送られたこの時点で、イシカリ改革の大綱のプランはできあがったとみてよいだろう。ただし、細部の点ではまだ種々問題も残っていたようで、先の十一月三日に範正・利熙から江戸にいたもう一人の奉行、竹内保徳にあてた内状では、「委細之義ハ、織部(堀利熙)面談之上ト申遣ス」とされている。十一月七日には、「イシカリ調評議之趣、尚又金助方へ今日差立候事」とされ、荒井金助へ「評議之趣」が報告されている一方で、照会事項もまだいくつかあったらしく、二十七日には金助よりの内状が届き、十二月二十三日にも、「昨日石狩御用状来ル、先頃之返書来ル、織部殿へ之内状も開封致ス」とあり、御用状の他に返書、内状が送られてきている。これらは、「イシカリ調物彼地ヨリ来リ候分一袋」として、金助からの内状とともに、翌安政五年一月二日に江戸へ廻送されている。
 以上のような経過をへて、イシカリ改革の件は幕閣にても決定をみるようになった。この日限は不明であるが、『公務日記』の安政五年三月二十六日に、「石狩一件江戸ニても評議済、不及伺、申上之積リ、早々発表之手続取調方夫々申談置」とあり、イシカリ改革はいよいよ「評議済」となり、伺いを経ることなく、ただちに「申上」の形で実施の運びとなるのであった。