武川勇次郎は、肝付七之丞の後任として安政四年閏五月にイシカリ詰となる。箱館では水主勤めの足軽であった。勇次郎は後述の亀谷丑太郎とならび長期にわたりイシカリ詰を勤め、慶応二年(一八六五)までは在任だったことが確認される。西村清八郎は、百姓より召抱えられた御門番であったが、安政五年五月頃にイシカリ詰となる。文久元年まで在任が確認される。信沢順之丞は、五年四月頃にイシカリ詰となるが、在任の期間は短く、六年六月頃に福士清五郎と交替したようである。清五郎は箱館では、内潟町百姓よりとりたてられた御門番であった。
亀谷丑太郎は、安政五年五月頃にイシカリ詰となる。丑太郎は、安政三年九月五日に山ノ上町百姓より足軽に抱(かかえ)入れとなり、御門番を勤めていた。武川勇次郎と共にながくイシカリ詰をつとめ、ハッサムの番所詰めであった。やはり慶応二年までの在任が確認される。その後、勇次郎と共にムロラン詰となり、明治元年(一八六八)七月二十八日には、両者はサル詰を申し付けられ(箱館裁判所評決留)、八月十八日に丑太郎は任地へおもむいている。この他、安政五年八月に桐谷多兵衛もいたことがわかるが、在任期間は不明である。
以上みてきたように、主にイシカリ改革以後は、大幅に役員の増加がなされた。すなわち、調役は一人から二人、定役は一人から二人、同心は一人から三、四人、足軽は二人から四、五人へと増加している。さらに以上の定員では足りず、さかんに在住を臨時的に登用して政務の繁忙をしのいでいた(第七章参照)。上述してきた役人の変遷をみると、図5のようになる。
図-5 役人任命の変遷
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写真-3 文久元年の役人の顔ぶれ(神社調子書) |