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エンカルシベの山霊

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 サッポロ山麓の指定に関し、松浦武四郎の提言もこれ以前にあったであろうが、武四郎はこの菊池大蔵の願書をうけ、「今般石狩領分字サッポロ山麓の辺え、東西蝦夷総鎮守御造営に相成候由承り候に付、右地所の儀附愚存の程奉申上候」の申上書を、二月二十日にハッサムでしたため、村垣範正の家臣であった渡辺良弼に提出している。それによると、サッポロのエンカルシベ山(現在の藻岩山)が最も適地なことを、以下のように述べている(燼心餘赤)。
従古来エンカルシベと申伝へ、土人等其山には神霊有之候由申深く信崇仕候。川猟又は樵等にサッポロ川等へ罷越候者有之節は、此山霊の神酒木幣を献じ祈り申候に神威著敷由申、妄に此山に向ひ不浄等は不仕候由に有之候間、何卒今度総鎮守築造にも相成候様の儀にも御座候はゞ、当山を神山と仕候其麓え社祠御建敷被仰付はゞ如何に御座候哉。

 武四郎の言によると、エンカルシベは山霊がすみ、神威がいちじるしい聖山で、アイヌの尊崇のあつい山であった。それゆえに、この山麓が適地であると述べているのである。
 イシカリに「東西蝦夷地総鎮守」の設立が企図されたのは、荒井金助がイシカリに本府をおき、将来は日本の〝北京〟にするという構想と軌を一にしている。すなわち、イシカリが蝦夷地の中心となり、蝦夷地の本府をこのイシカリに設置するもので、これに対応した総鎮守社の設立が必要とされたのである。八幡社設立の元由は、むしろイシカリ役所及び箱館奉行側にあり、菊池大蔵の方に誘導があったとみられるのである。