従古来エンカルシベと申伝へ、土人等其山には神霊有之候由申深く信崇仕候。川猟又は樵等にサッポロ川等へ罷越候者有之節は、此山霊の神酒木幣を献じ祈り申候に神威著敷由申、妄に此山に向ひ不浄等は不仕候由に有之候間、何卒今度総鎮守築造にも相成候様の儀にも御座候はゞ、当山を神山と仕候其麓え社祠御建敷被仰付はゞ如何に御座候哉。
武四郎の言によると、エンカルシベは山霊がすみ、神威がいちじるしい聖山で、アイヌの尊崇のあつい山であった。それゆえに、この山麓が適地であると述べているのである。
イシカリに「東西蝦夷地総鎮守」の設立が企図されたのは、荒井金助がイシカリに本府をおき、将来は日本の〝北京〟にするという構想と軌を一にしている。すなわち、イシカリが蝦夷地の中心となり、蝦夷地の本府をこのイシカリに設置するもので、これに対応した総鎮守社の設立が必要とされたのである。八幡社設立の元由は、むしろイシカリ役所及び箱館奉行側にあり、菊池大蔵の方に誘導があったとみられるのである。