善光寺・西本願寺がともに、サッポロ・ハッサムに寺院建立の指定をうけたのは、蝦夷地総鎮守社の建立と同様に、イシカリ建府の設定とつよく関係をもっている。西本願寺の場合、まだ無人に近い状態のところを、特に「土地引立之ため」を理由にされているのは、サッポロ・ハッサムにイシカリの本府をおくことが、企図されていたためである。またあわせて、イシカリ開発のことが期待されていた。
東本願寺でも安政三年五月に、西蝦夷地へ寺院取建が申請され、イワナイ・オタルナイに安政六年に寺院がおかれた。イシカリには、慶応二年(一八六七)二月に、改会所の通詞役であった玉川啓吉宅に、箱館御坊付イシカリ道場が設置され、のちの能量寺の前身となる(東本願寺開教百年史)。
なお、この他仏光寺でも西蝦夷地の進出を計画していたが、このように多くの教団・教派が西蝦夷地へ進出してきたのは、幕府の蝦夷地における宗教政策の変化と共に、出稼・永住の大幅な増加がみられたからであった。仏光寺や増上寺(善光寺の本山)が、明治二年に北海道の〝分領〟を得たのも、以上の背景によっている。