同心は文久元年五月の時点で、吉村五郎左衛門・平田弥十郎・岡田峰吉・吉村寛輔の四人がみられた(菊池重賢文書 箱館神社調)。このうち平田弥十郎に関し既述したが、吉村五郎左衛門は、万延元年(一八六〇)十月頃にイシカリ詰となった(林家資料 御賄留)外に所見がない。岡田峰吉は、安政六年五月改の「函府人名録」(『旧幕府』第四巻第四号)には同心見習とあるので、やはりイシカリ詰の同心であった岡田万治郎の子弟とみられる。吉村寛助については、他に所見がない。なお、慶応二年の同心で吉村現一郎の存在が知られるが(高島運上家日記)、この現一郎は先の五郎左衛門、ないし寛輔と同一人物とみられる。
また、「高島運上家日記」(四月二十五日条)には、同心として現一郎のほかに、岡田金次郎・山本晋之助の両名がみられる。金次郎は、岡田峰吉と同一人の可能性がある。晋之助は、明治元年(一八六八)八月十五日に、趨事席(元石狩詰同心)を申し付けられている(箱館裁判所評決留)。
足軽には、文久元年五月の段階で、武川勇次郎・亀谷丑太郎・西村清八郎・福士清五郎・加藤十助の五人が知られている。このうち、勇次郎・丑太郎・清八郎については前述した。福士清五郎は、安政六年六月頃にイシカリ詰となったらしい(御賄留)。文久二年以降の所見はない。加藤十助については、まったく所見がない。
また、慶応二年四月の段階では、武川勇次郎・亀谷丑太郎・山本喜惣太・小泉束の四人が知られている。このうち、喜惣太は文久元年十二月に、イシカリ詰の足軽とみえている(御賄留)。明治元年八月十五日に、石狩詰足軽から函館裁判所属事席となった山本政之助と同一人物とみられる。小泉束に関しては所見がない。
ついで、明治元年八月の段階では、山本政之助・西村嘉右衛門・田中鋭次郎の三人が知られている。このうち、嘉右衛門は慶応三年(一八六七)八月に、シノロ出役となっている。これは、鮭漁をひかえ漁場への出役か、またはシノロ番所の成立ともみられる。嘉右衛門は出役に際し、シノロの御手作場を指導していた大友亀太郎に対し、「御隣場之事ニモ御座候、殊ニ漁場不訓之事故、万事不行届之者ニ御座候間、何分宜敷御懇意之程添慮被下度奉願候」と挨拶状を送っている(大友亀太郎文書補遺 札幌の歴史 一三号)。