サッポロには、慶応二年(一八六六)以降、大友亀太郎の指導する御手作場が開かれ(第八章参照)、イシカリ役所ではこの統轄をなし、これまでの在住の開拓地、荒井金助が開いたシノロの荒井村などと共に、イシカリ・サッポロの開拓が徐々に進行していく。大友亀太郎は、さらにトウベツ(当別)の開拓も計画していた(大友亀太郎文書)。
しかし、薩長雄藩による倒幕運動の激化により、慶応三年(一八六七)十二月九日に王制復古が宣言され、京都に明治新政府が成立する。一方、徳川慶喜は翌明治元年二月九日に江戸城を出て上野の寛永寺に謹慎し、ここに徳川幕府は終焉(しゅうえん)をつげた。この間の情勢や経過につき、箱館奉行から布達類が廻文され、イシカリ役所にも届いていたことが、大友亀太郎文書からもよくわかる。京都・江戸でくりひろげられていた局面の推移を、イシカリの役人たちもかたずをのんで注視していたに違いない。