開拓使が設置されるも、全道一円の開拓と支配は困難な点が多いので、北海道は諸藩、寺院、兵部省などの分領支配が一時的になされた。石狩郡は小樽・高島郡とともに、明治二年(一八六九)八月二十日より翌三年一月八日まで、兵部省の管轄となった。札幌郡は除外されたのではあるが、御手作場のおかれた篠路などは、兵部省のもとにおかれた。
先の井上弥吉は、兵部省の軍務官として再び石狩へ赴任した。この時期に、幕末よりひき続き石狩詰となった下級官吏には、山本晋之助・荒井好太郎(使掌)、西村嘉右衛門・畠山万吉(等外附属)がいる。また、改会所の詰役では、大西文左衛門・佐々木貫三・横山喜蔵も等外附属となっている(明治二年十一月 開拓使職員録)。さらに、明治三年四月に作成された『兵部省分引継書類』には、来住野五郎次・金沢幸太郎・田中鋭次郎もいたことがわかる。山本政之助は厚田詰であった。飯田豊之助(翠)も明治四年には、札幌本府の等外附属となっている。しかし彼の場合、箱館の戦役に際し榎本軍に参加したので、その位はいたって低い。
このように多数の人間が、石狩の地理・産業に詳しいこと、また人材の不足していたことにより再雇用され、さらには開拓使へと奉職していく。しかし、新しい時代に即応した官僚社会をのり切っていくのは困難で、肝付七之丞(大伴遊叟)が大主典となったのは別にしても、イシカリ役所の関係者で昇進を得たのは、わずかに少主典となった来住野五郎次・平田弥十郎のみであった。