調査団がイシカリに検分御用として到着するのは、目付グループ本隊が五月二十日、勘定方グループ本隊は二十三日であるが、これの幕府への速報はソウヤから両者連署で差し出される。『蝦夷地為御用、松前より西蝦夷地宗谷迄迴浦仕候行程荒増申上候書付』がそれで、経過した地名に一、二行の簡単な説明が加えられている。ただ経過地の速報であるから所感や意見は勿論、日付けもない。イシカリについては、オタルナイより船路七里余とし、
と報じている。
カラフトからの帰途、東蝦夷地ユウフツを通過した速報(『西地宗谷よりシヤリ越松前迄里程申上書』、また『堀村垣回浦上申記』ともいう)には、「是より、西イシカリ越道有。右会所前川よりヒヽと申所迄、船陸とも通路有之。夫よりチトセ越まて陸弐里にて、ヲサツ村と申所へ船陸とも弐里程。此所より船路イシカリ境迄、シユマヽフともふす処え四里、都合凡拾六里程にてイシカリ川へ出る。一円平地砂地の野原」と述べられ、形式的な報告ではあるが、両グループによるイシカリ検分のなされたことが幕府に報告された。