以上の三カ年にわたる調査の成果が、市川十郎の『蝦夷実地検考録』および目賀田帯刀の『延叙歴検真図(えぞれきけんしんず)』(三〇巻)であった。前者は五三巻あるいは四三巻ともいわれているが、写本が六巻しか伝わっていない。各場所の地名の由来、地勢、漁業産高、建物、アイヌの戸数などを詳記したものである。一行の調査の折には、「村々海岸里数、川々小名、出産物見込之高」や、寺社・陣屋などを取り調べて差し出させており(森村役場「御用留」道文)、このようなデータをもとにまとめられたものであった。また、ヨイチ場所でも安政四年に、脇屋省輔・市川十郎あてに、里数・出産物取高・アイヌ人別・出稼家数、あるいは漁業旬季書上や寒暖風土の事を、書上げて提出されている(余市町史 資料編一)。『蝦夷実地検考録』が、もし全巻伝わっていたなら、当時の蝦夷地を克明に知り得る好資料となっていただけに、散逸が惜しまれる。市川十郎は、福山城の設計・築城にあたった兵学者一学の男で、十郎も文久二年(一八六二)に大坂の天保山に砲台を築いている(明治元年卒)。