老中家臣調査の一応のしめくくりとなった安政四年末の時点で、まず阿部(福山藩主)が死去しておらず、牧野(長岡藩主)は退任した。加えて翌五年は井伊大老の登場で、堀田(佐倉藩主)・久世(関宿藩主)両老中が座を去らざるを得なかった。久世は万延元年再任するとはいえ、開国を軸とする幕閣の動きはめまぐるしく、各藩の調査結果がどの程度まで幕政に吸収されたか、各藩の施策に織り込まれていったかは、今後の研究によって明らかにされなければならない。
たとえば、仙台藩は老中家臣の調査結果をいち早く受けとめようとしたし(伊達家文書一七一〇)、佐倉藩佐波銀次郎は調査の知識を求められてであろう、翌安政五年から老中脇坂家へ一時派遣される。佐倉藩についてみれば、西周らの建議がこの調査を抜きにして考えられず、明治の津田仙の活躍や農場開設へとつながるものであろう。長岡藩においても同様の流れがうかがえる。
さて、安政五年以後、大老家、老中家は蝦夷地調査をつづけたのだろうか。安政四年九月、再び老中になる上田藩主松平忠固は「臣八木幸助ナルモノ、蝦夷ヲ巡視センコトヲ其主君ニ請ヒタリト雖モ、遂ニ許可ヲ」(懐旧紀事)与えなかったという。また、同年老中になった竜野藩主脇坂家には、前にふれたように二年つづけて蝦夷地を調査した佐倉藩士が一時派遣された。さらに、安政六年には大老井伊家の家臣がイシカリの調査を実施したようである。「井伊掃部頭様御家中、石狩より御帰り止宿」(ヨイチ竹屋 御場所見廻り日記 安政六年九月十三日条)との記事がみられるから、全大老、老中家が調査を継続したのではないにしても、一部家臣によるイシカリ・サッポロへの往来はつづいたらしい。
次に、安政三、四年にわたる五老中家臣のイシカリ・サッポロ調査の様子を各藩ごとにみていくことにする。