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鷹羽の徽号

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 老中久世大和守広周は、下総国関宿城主(千葉県)で、三河以来の徳川家功臣の家柄。五万石にみたない小藩だが利根川と江戸川の合流点にあって河川交通の要衝を占め、城下の繁栄は〝お江戸日本橋の飛地〟といわれたほど。寺社奉行をへて嘉永四年(一八五一)老中職につき、公武合体を唱え皇女和宮の降嫁をすすめるが、反井伊大老派としても知られた。
 この藩の蝦夷地調査は、安政四年五人の藩士等によって行われる。一月二十一日、久世家の紋鷹羽の徽号のある衣を下付し、青木常之助(在政)、成石修輔、小林恭助(忠得)の三人と従士水嶋光信、従僕勝蔵に藩主自ら蝦夷地巡回を命じたという。大野良子校註『東徼私筆』によると、このうち成石は関宿藩勘定頭大野旧友の子で、文政元年(一八一八)生まれ、幼名八之助、諱は友儀、字を士彝(ことつね)という。次男だったが天保三年(一八三二)召抱えられ一家を興すにあたり、断絶していた成石の姓を復活させた。儒学を亀田綾瀬に学び藩黌教倫館の助教を勤め、近侍兼秘書省事という役にあったというから、藩主側近の一人であったらしい。蝦夷地行は三九歳の時である。明治維新時、関宿城は混乱をきわめ、成石は幕軍に加担したとして藩獄に監禁され、明治三年獄中で五三歳の生涯をおえた。青木等の履歴は詳らかにしえない。
 一行の調査記録として青木の日記、成石の『東徼私筆』(一名蝦夷巡覧)、『廻島異聞』等があるというが、『東徼私筆』のほかはまだ見る機会がない。これは目次によると全七巻だが、国立公文書館、国立国会図書館、北海道立図書館、市立函館図書館所蔵の写本はいずれも七巻目を欠く。「避忌諱、今暫脱簡」と付記しているので、この巻はあるいは口述復命され文章化しなかったのだろうか。成石は絵を江戸における円山派の画人鈴木南嶺に学び、画号を南海といい、「弱冠たりし時は此技もて世にもきこえたく思いし」ほど、したがって旅中目にした花鳥人物風景を数多くさしはさみ、絵のみとっても貴重な記録だが、原本が不明で写図しか見られないのは残念である。写真2も旅中の一枚で、イシカリに向かう一行の道案内をしてくれたアイヌを安政四年五月八日オタルナイで描いたものである。

写真-2 夷人先導之図 アイヌ人物画 市立函館図書館蔵