老中牧野備前守忠雅は越後国長岡城主(新潟県)で、やはり譜代の大名である。阿部正弘と同じ天保十四年(一八四三)京都所司代から老中に就いた。父忠精も文化十三年(一八一六)まで老中を勤め、長岡三明君の一人といわれる。
長岡藩の調査は森一馬、高井佐藤太と従士高野嘉左衛門、従僕忠太によってなされた。四人そろってイシカリ・サッポロに足をはこぶことになる。森は春成ともいい、森忠平治の子で、藩の目附格寺社役、一一〇石。弟は明治になって北海道に来て札幌農学校長などを歴任する森源三である。高井は英一ともいい、勘定本締、二〇石。明治七年『新潟県官員録』に「十四等出仕、堤防掛、上等月給」とあるから、維新後は県庁に勤めた人らしい。
一行の記録に『罕有日記』『蝦夷回島録』(高野)があるというが、後者はまだ見る機会を得ない。前者は国書総目録に別名『蝦夷廻浦日誌』とあり、日記の後部で「夷中廻浦日記調」とか「蝦夷廻浦上帳」と書いているので、藩主に復命した時は、このような記録名であったかと思われる。その巻頭に森、高井、高野三名が連署しているが、文中から森が主に執筆した様子がうかがえる。
一行は安政四年四月一日長岡を出発、新潟から青森を経て五月七日箱館に渡った。ここに同郷の松川弁之助が来ていたので、何かと便宜を得ることができた。箱館奉行と打ち合わせの後、イシカリへ向け出発するのは五月十三日、松前江差を回り閏五月二日オタルナイ泊、翌三日イシカリに到着して一泊した。箱館出立前はイシカリに着いたら「石狩川一両日溯り、再び石狩え罷下り」、そのあと日本海岸を北上する計画を練っていたが、カラフト渡海の時期を失しないようにとの村垣奉行の助言で、イシカリ川上流の調査を見あわせることになった。したがって紀行に添えられた地図によっても、イシカリ川上流や千歳越の情報はきわめて不完全なものであったことがわかる。
閏五月四日イシカリをあとにしアツタへ向かい、カラフトに渡り、帰ってからオホーツク海岸から太平洋岸を回って八月二十日箱館着、九月三日佐井へ向け出帆、九月晦日江戸に入ったが、この二〇日ほど前に藩主は老中職を罷め溜詰格となっており、調査を積極的にすすめてきた阿部老中も死去しておらず、状勢は大きく変わっていた。しかし調査結果は報文、画帳、地図などにまとめられ、十一月十一日主君に「蝦境の嶮易、風土、人情迄大概言上」し、二十七日郷里に帰ったのである。