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「新道甚麁にして不宜」

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 『丁巳日誌』では道幅は六尺となっているが、一方、河野常吉編『明治維新前ニ於ケル北海道路史』では、二間が標準にされたという。実際には六尺程度であったろう。
 このサッポロ越新道開削により村山伝二郎は、後に他場所の新道開削の請負人ともども褒賞をうけている。しかし、その褒賞はわずか銀三枚であった。おそらく少なからぬ経費を要したであろうし、完成を待たずに請負人は差免されるし、伝二郎にとり割りのあわない事業であったろう。ただしこの褒賞の低さは、工事の杜撰(ずさん)さにもあったようである。
 安政四年閏五月に廻浦でイシカリ入りした堀利熙は、九月に再びユウフツよりイシカリ入りしている。在住地やこのサッポロ越新道の検分に来たのであろう。これに随行した玉虫左太夫の『入北記』によると、ホシオキより銭箱間は、「新道ヲ築キタルトテ上下スレドモ険ナラズ。最初ノ道トハ雲泥ナリ」と伝えている。この路線部分は、オタルナイの請負人恵比須(岡田)半兵衛の施工したもので、長さ三〇町、幅二間、所要人夫一五〇〇人であったという。
 阿部屋の施工部分に関してみると、『入北記』には、「新道ノ事ユヘ道路未ダ堅ナラズ、折々泥濘ニ苦メラルヽ処アリ」、「新道ユヘ路程宜シカラズ」をみえ、路盤固めもなされていなく軟弱な、刈り分け道程度といったものであったことがわかる。左太夫がこの新道を往復したのは、九月九日から十三日の間であった。堀利熙が阿部屋に開削を命じたのは六月一日で、完成したのは七月である。この短期間に工事がなされたわけで、まだトヨヒラの通行屋も仮普請の丸太小屋も同然であったという。いずれにせよ、再整備と完成が要求されていた。
 翌安政五年(一八五九)四月に、廻浦のためにイシカリ入りした村垣範正は、四月二十九日に新道を検分しながらユウフツに向かう。その折に、「イシカリ持之新道甚麁にして不宜、追々手入之積り金助へ談し置」と、荒井金助に「手入」を指示している。一方、「ユウフツ之方、新道大ニ出来よし」と比較もしている。これは請負人側の態度、工事の難易度などにも関係するであろうが、阿部屋が施工した路線部分は、高い評価が与えられていなかったのである。