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ハッサム川の利用

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 この小休所の所には、ハッサム番屋もおかれており、足軽亀谷丑太郎が在勤することになる。なお、小休所・番屋はハッサム川(現琴似発寒川)のそばに建てられたが、このハッサム川はイシカリに向かう舟運によく利用されていた。ハッサム川には流木が多く、下流のハッサムブトまで丸木舟の使用しかできなかったが、安政四年(一八五七)閏五月の堀利熙、五年四月の村垣範正のハッサム在住地を廻浦の折、いずれもハッサム川を利用している。前者の時、玉虫左太夫はハッサム川の船運に関して、「此度通行セシニ大木縦横ニ倒レ川道ヲ塞グ、……能ク是ヲ浚(さらい)ナバ丸木舟ハ勿論ノ事、大船百石積位ノ舟ハ通スベシ」と、ハッサム川の船運の可能性をおおいに述べている。事実、ハッサム川の川さらいは実施され、このことは、松浦武四郎「丁巳日誌」にも記載されている。
此間ハツサブ川すじ寄り木・流れ木多く出来(しゅったい)、船路通り難く成候に附、右の普請として土人等十六人を支配人召連普請に上り、凡十五日見込の処なりしが、其を少しも休もいたさせず九日に仕上たり。

 これによると、ハッサム川の川さらいは、アイヌの使役によりおこなわれたが、一五日の予定を九日で強行する過酷な労働であった。前述のように、安政六年にもアイヌの労働による「川普請」が行われた形跡がある。文久二年(一八六二)に記された、今井宣徳『蝦夷客中日記』には、「此所(ハッサム)在住五軒あり、諸荷物運漕は皆此川(ハッサム川)を登すと云」とあり、ハッサム川の利用がさかんに行われ、在住地への物資の輸送に便宜を与えていたことがしられる。
 なお小休所は先のハッサムの他に、ホシオキ在住のいるホシオキにも、安政五年に建設されたらしい(公務日誌 五年八月六日条)。