此間ハツサブ川すじ寄り木・流れ木多く出来(しゅったい)、船路通り難く成候に附、右の普請として土人等十六人を支配人召連普請に上り、凡十五日見込の処なりしが、其を少しも休もいたさせず九日に仕上たり。
これによると、ハッサム川の川さらいは、アイヌの使役によりおこなわれたが、一五日の予定を九日で強行する過酷な労働であった。前述のように、安政六年にもアイヌの労働による「川普請」が行われた形跡がある。文久二年(一八六二)に記された、今井宣徳『蝦夷客中日記』には、「此所(ハッサム)在住五軒あり、諸荷物運漕は皆此川(ハッサム川)を登すと云」とあり、ハッサム川の利用がさかんに行われ、在住地への物資の輸送に便宜を与えていたことがしられる。
なお小休所は先のハッサムの他に、ホシオキ在住のいるホシオキにも、安政五年に建設されたらしい(公務日誌 五年八月六日条)。