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堀利熙の申渡しと農業奨励

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 箱館奉行では、蝦夷地の農業開発に資するためと同時に、アイヌの生活基盤の確保のために、農業の奨励をおこなっていた。堀利熙の廻浦の折にはこの政策にそい、トクヒタ惣乙名サヒテアエノ、ハッサム乙名コモンタなど十三場所の乙名に、鍬を各一挺ずつ供与した。
       石狩土人への申渡
           [請負人代支配人]へ
漁業之暇有之節ハ、追々農業筋心得テ精いだせ、依テ鍬一挺宛為取遣ス。

下札此処役土人
十三人名前

右之通役土人へ御渡置候間、得其意漁業差障(さしさわり)不相成様繰合遣シ、雑穀作方等教導いたすべし。尤小前土人共も追々耕作筋手馴候様仕向遣セ。

(石狩土人申渡)

其方共義、兼テ被仰出御趣意ニ付、漁業ノ妨(さまたげ)不相成様開墾等出精致ス、右ニ付鍬一挺ツヽ為取遣ス。

(入北記)


 以上の二種の申渡しが残っている。これらによると、まず漁業の差し障り妨げにならない、漁業の合い間のいわゆる「漁間農業(ぎょかんのうぎょう)」が志向されていた。そして乙名たちがまず率先しておこない、漸次、一般へも普及をはかるとともに、農業指導も支配人たちへ期待されていた。従来、アイヌが農業をおこなうことは、請負人の利益に反し、交易や漁業労働力の減少が予想されるので、請負人側で禁止してきた。その点で農業奨励への政策転換は、画期的なものであったが、充分な基礎がないままに立案したために、成果をみることは少なかった。