表-3 安政3年(1856)の人口構成
表-4 慶応元年(1865)の人口構成
まず両表を比較して気付くことは、安政三年の場合、一〇歳以下の人口が極端に少ないことである。これはアイヌの適齢期の青年男女による結婚が充全になされず、出産による生益が阻害されていたことを示している。これを人別帳に即して分析すると、たとえば人別帳には二〇代の青年男性は六五人いる。このうち妻帯者は一九人のみで、あとの四六人は独身者である。この中には婚姻・夫婦関係の記載もれ、死亡者の記載もあり、実数とはみなしがたい点もあるが、いずれにせよ二〇代適齢期の男性のうち、相当数が結婚できず独身でいたことがうかがわれる。これは二〇代男性が、最も屈強な労働力として支配人などのもとで束縛され、遠隔地や長期にわたる労働に駆使され、結婚にいたる環境や条件が失われていたためである。
さらにもう一方では、アイヌ女性が支配人・番人の妻妾とされたことにも原因がある。武四郎が確認したところでは、妻妾となった女性は三二人もいる(菊地勇夫 場所請負制下の和人とアイヌ)。このうち有夫の女性も多数おり、いずれも支配人などに無理じいに引きさかれたものである。支配人の円吉は、少なくとも三人を妻妾としている。妻妾となっても妊娠すると堕胎をせまられたり、性病を移されるケースも多かった。以上の原因により、アイヌ社会における自然で健全な人口増殖が絶たれ、疱瘡の流行などと共に、人口の大幅減少がひきおこされたのであった。
一〇歳以下の人口が極端に少ない安政三年の状況は、慶応元年ではかなり是正されている。これは安政二年(一八五五)七月、支配人・番人がアイヌ女性を妻妾とすることを禁止し、妻子の同伴を奨励した成果とみなすことができる。また先の分析と同様に、二〇代の結婚適齢期の青年男子の妻帯者数をみると、二〇代男性二七人のうち、一四人が妻帯者で一三人が独身者である。ただし史料が断簡で接合関係が不明なものばかりなので、独身者が末尾にくると妻の有無が確認できない。それゆえ、独身者がさらに減少し、妻帯者がふえる可能性もある。このことを捨象しても、慶応元年の場合、独身率は四八パーセントである。これに対し安政三年は七〇パーセントと算定されるから、ここに結婚をめぐる大きな社会変化が看取される。