当地御用途之儀も方今追々見通相附、御収納より御出方相減候に付、先金三千両を目当に仕、当寅年より石狩を手始ト仕、追々奥地之方エ農夫繰入開墾為仕可申奉存候得共、迚も右様の事ニテ外国人垂涎之情断絶為仕候儀には致り難く、更ニ是迄申上候儀御採用無之、若不慮の儀有之候節至り、私共を被罰候而巳ニテ相済候儀無御座、御国□ニも相成候間、何れにも早々厚御評儀御座候様仕度、此段戦慄奉申上候、以上。
(ヨイチ林家 諸覚諸書上)
これによると、サッポロの御手作場は、以前から考えられてはいたが、経費の点で見通しのつくのに若干時間がかかったらしいこと、この方式の御手作場はこれ以外にもいくつか設置する意図があったこと、しかももしそれらが設置されても、なお蝦夷地防衛の体制としてきわめて不充分であると奉行が認識していたことなどがわかる。すなわち、当然ながら御手作場は、在住制による開拓と同様、基本的には防衛を主目的として設置されたものである。と同時に、具体的に言及してはいないが、在住制ではもはやその目的はとうてい達成できないと見きわめたことも明らかである。すでにみてきたように、全道的にも在住数は、当初の目標とされた六〇〇人をはるかに下まわり、さらにイシカリ在住についてみれば、ほぼ開拓に専念したとみられる山麓地域はほとんど全滅し、行政的な業務を兼ねた沿海地域で、ようやく維持継続されたにすぎない。すなわち、原則的には在住扶持・手当金等を支給し、もっぱらその活動に依拠する、換言すれば安上がりの開拓方式は完全に行き詰まった。そしておそらくはその反省から、直営かつ計画的に相当額の先行投資を行うあらたな御手作場方式に転換せざるを得なかったものと思われる。そしてこれが、幕府の到達した、蝦夷地開拓に関する最終の方式であったといえよう。