此地限り之出高を以て御勘定相立候様御仕法御定有之、御成功之処手間取候へ共、先周海之漁利を以て取賄、屯田農兵之遺制ニ傚ひ、夫々耕地ニより新田開墾産物取立方ニ手を尽し候ハヾ、急度御成算可有之と見込罷在候
(幕末外国関係文書)
すなわち、幕府財政も苦しく、加えて国務多端の折から出費もかさみつつあることを、この前文で考慮しながら、したがって蝦夷地の経営にあたっては、その経費は蝦夷地の収益で賄えるような自立の方策を定立し、経営が成功するまでに時日を要することではあるが、まずもって四海での漁業の利益によって蝦夷地の経営を支え、ついで屯田の制にならって配置した農兵の新開地から、その生産物の収取に努め励んでいくならば、必ずや蝦夷地経営の成算は立ちうるであろう、というものであった。
さらに、ここでいう開発の主体としての「屯田農兵之遺制」とは、「御旗本御家人次三男厄介ニ至るまで、内願之もの共ハ、夫々御撰み之上、御手当等御仕法相立、御移ニ相成、其外陪臣浪人ニテモ可御用立者ハ夫々御所置ニテ御引移有之」(前出)と、まさしく前章で詳述された「在住」の制にほかならなかった。
ところで堀箱館奉行はその後、安政元年十二月に再び上書(蝦夷地上地之儀ニ付見込大略申上候書付)しているが、ここで東・西の蝦夷地に配置すべき人員として、「御旗本御家人ニテ相願候者は勿論、次三男厄介陪臣浪人等ニても人物相撰、普く差遣し」と前述の在住を基本に据えながらも、引き続き「其外農商遊民等ニ至まで、蝦夷地ニテ産業相望候者ハ差許、開墾為致、非常之御備ニ仕度」(蝦夷地御開拓諸御書付諸伺書類、以下「諸伺書類」と略記)と、士分のみならず、新たに百姓・町人に無職の者までも組み入れる考えを示している。
以上のような堀、村垣の蝦夷地警衛や公務をも兼ねた在住制案は、ほぼ全面的に幕閣の容認するところとなり、身分・手当等の細則の決定を終えて、安政三年より採用を開始し、この在住制が展開していったことは前章で見たとおりである。
この在住制と平行して、蝦夷地開発を目的として採用された他の一つの方策があった。これが御手作場である。