ビューア該当ページ

蝦夷地開発の方策

915 ~ 916 / 1039ページ
 安政元年(一八五四)九月に箱館奉行の堀利熙と勘定吟味役兼松前蝦夷地御用掛の村垣範正とが、連名で蝦夷地を上知すべき旨の上申書(松前蝦夷地惣体見分仕候見込之趣大意申上候書付)を提出したが、その中で幕府による蝦夷地経営の方法として次のように述べている。
此地限り之出高を以て御勘定相立候様御仕法御定有之、御成功之処手間取候へ共、先周海之漁利を以て取賄、屯田農兵之遺制ニ傚ひ、夫々耕地ニより新田開墾産物取立方ニ手を尽し候ハヾ、急度御成算可有之と見込罷在候
(幕末外国関係文書)

 すなわち、幕府財政も苦しく、加えて国務多端の折から出費もかさみつつあることを、この前文で考慮しながら、したがって蝦夷地の経営にあたっては、その経費は蝦夷地の収益で賄えるような自立の方策を定立し、経営が成功するまでに時日を要することではあるが、まずもって四海での漁業の利益によって蝦夷地の経営を支え、ついで屯田の制にならって配置した農兵の新開地から、その生産物の収取に努め励んでいくならば、必ずや蝦夷地経営の成算は立ちうるであろう、というものであった。
 さらに、ここでいう開発の主体としての「屯田農兵之遺制」とは、「御旗本御家人次三男厄介ニ至るまで、内願之もの共ハ、夫々御撰み之上、御手当等御仕法相立、御移ニ相成、其外陪臣浪人ニテモ可御用立者ハ夫々御所置ニテ御引移有之」(前出)と、まさしく前章で詳述された「在住」の制にほかならなかった。
 ところで堀箱館奉行はその後、安政元年十二月に再び上書(蝦夷地上地之儀ニ付見込大略申上候書付)しているが、ここで東・西の蝦夷地に配置すべき人員として、「御旗本御家人ニテ相願候者は勿論、次三男厄介陪臣浪人等ニても人物相撰、普く差遣し」と前述の在住を基本に据えながらも、引き続き「其外農商遊民等ニ至まで、蝦夷地ニテ産業相望候者ハ差許、開墾為致、非常之御備ニ仕度」(蝦夷地御開拓諸御書付諸伺書類、以下「諸伺書類」と略記)と、士分のみならず、新たに百姓・町人に無職の者までも組み入れる考えを示している。
 以上のような堀、村垣の蝦夷地警衛や公務をも兼ねた在住制案は、ほぼ全面的に幕閣の容認するところとなり、身分・手当等の細則の決定を終えて、安政三年より採用を開始し、この在住制が展開していったことは前章で見たとおりである。
 この在住制と平行して、蝦夷地開発を目的として採用された他の一つの方策があった。これが御手作場である。