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御手作場の導入

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 慶応二年(一八六六)二月一日に在住関定吉ならびに大友亀太郎は、箱館奉行所より次のような申渡書を受けた。
蝦夷地御開拓筋之義、品々御世話も被為在候得共、御用途之御都合も有之何分御捗行ニモ難相成、去迚御捨置可相成筋ニハ無之候間、一ケ年金三千両を目当ニいたし、先ツ石狩場所へ農夫繰込、追々奥地迄も御取開之積ニ有之、就テハ右取扱方之儀其方共へ申渡候、尤場所詰得差図、諸事入念取計開懇(ママ)捗取候様可致候
右之趣大和守殿へ伺之上申渡候
(達願御用留 大友亀太郎文書―以下『大友文書』と略記)

 すなわち、蝦夷地の開拓に関しては、箱館奉行所としても諸種手を下してはきたけれども、なにぶんにも財政上の都合もあって充分に進展させることができずにきた。かといって捨てて顧みないという問題では決してありえないので、当面一カ年の予算金三〇〇〇両を目途として、まずもってイシカリ場所に農民を入植させ、それから徐々に奥地へ向けて開拓を進めていく考えである。ついてはこのイシカリ開拓の取り扱いを、関定吉と大友亀太郎に命じる。ただし両名は石狩役所の指図を受けながら、諸事業を念入りに処置して開拓の進捗をもたらすようにいたすべきである、という内容の申渡しであった。
 さきの箱館奉行小出大和守のイシカリ開拓の要請は容認され、直ちに右のような命令が発せられたものとみられ、ここに大友亀太郎が差配するイシカリ御手作場の開設をみるのである。なお大友と共にその取り扱いを申し渡された在住関定吉は、大友の慶応二年二月『石狩開墾取扱願伺取調書上帳』(大友文書)によると、「関定吉儀石狩出張御免相願候ニ付」とあるように、イシカリ御手作場取扱方を命じられた直後に辞退して、イシカリへの赴任はみられなかった。