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入植の農民

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 他方、この開墾場の造成工事の半ばに、早くも農民の入植が始まっていたのである。すなわち慶応二年の七月に四戸、八月に同じく四戸の農民がこのイシカリ御手作場に入っている。いまこれら慶応二年より同四年の三年間に御手作場に入植あるいは編入された農民の人たちを、各年ごとの『石狩御手作場家数人別取調書上帳』(大友文書)によって、家族を含めて掲げてみると以下の通りである。なお年齢は原則的に入植年のものである。
〈慶応二年七月入〉
長蔵(越後蒲原郡平形村、三五歳)、女房まき(三五歳)、女子はな(六歳)、同なミ(三歳)、女子たか(慶応三年九月出生、当歳)
豊吉(慶応三年万次郎と改名、南部佐井、四六歳)、父又左衛門(六一歳)、嫁つき(慶応三年入・三三歳)、
 悴浅吉(慶応三年入・一三歳)、女子なを(慶応三年入・二歳)、二男兼松(慶応四年入・一二歳)、三男幸吉(慶応四年出生カ)
宅四郎(越後蒲原郡井栗村、四〇歳)、女房まん(三五歳)、悴善次郎(一三歳)、娘のふ(五歳)、二女とき(三歳)
弥平次(越後蒲原郡大宗村、三八歳)、女房きり(三〇歳)、悴弥助(一四歳)、二男仁蔵(九歳)、三男三吉(五歳)、
 四男四馬(九月出生・当歳)
〈慶応二年八月入〉
松太郎(南部五戸、四八歳)、悴吉太郎(二四歳)、二男八太郎(六歳)、三男留吉(四歳)、
 嫁はき(慶応三年八月吉太郎に嫁入・一八歳)
勘右衛門(庄内井鈴村、四七歳)、女房きミ(三七歳、慶応四年末まで未着)、悴佐市(一一歳)
吉之助(南部八戸、三八歳)、女房あき(三八歳)、悴金次郎(一一歳)、二男末吉(七歳)、三男徳二郎(一歳)、
 弟利助(二二歳、慶応三年離村カ)
寅吉(南部八戸、四九歳)、女房おり(四三歳)
〈慶応二年十一月入〉
寅助(津軽、三八歳)、妻さと(二六歳)、悴岩次郎(六歳、慶応三年三月十四日死去)、娘たミ(二歳)
〈慶応三年一月入〉
久八(越後蒲原郡並積村、四八歳)、妻たつ(三八歳)、娘たけ(一三歳、奉公のため未着であったが慶応四年七月以降入)、
 悴九蔵(九歳)、三男留松(二歳)、四男末吉(慶応四年八月出生)
徳三郎(津軽小畑、四四歳)、妻きわ(三九歳)、悴長作(一二歳、慶応四年末まで未着)、娘とせ(八歳)、
 同とわ(三歳)、同ちり(慶応四年十二月出生)
三九郎(津軽金木村、四四歳)、妻その(四二歳)
〈慶応三年七月入〉
磯吉(南部、三〇歳)、妻との(二八歳)、悴倉蔵(三歳)、二男辰太郎(慶応四年出生)
卯之助(津軽原子村、四四歳)、妻さて(四一歳)、娘きん(六歳)
三太郎(秋田新谷村、三三歳)、妻さた(三三歳)、娘なお(三歳)
〈慶応三年八月入〉
嘉蔵(南部五戸、四八歳)、妻とら(四二歳)、悴半次郎(一〇歳)、二男嘉助(四歳)
佐次右衛門(津軽阿次ケ沢、五〇歳)、妻よし(三五歳)、娘ちよ(一三歳)、悴国松(一一歳)、二男石蔵(八歳)、
 娘ミね(三歳)、同ミよ(当歳)
長八(津軽下高田村、六二歳)、悴熊吉(二四歳)、二男馬吉(二二歳、慶応四年七月別家)、三女いそ(一二歳)
〈慶応三年六月組入〉
荷三郎(中川金之助上農夫、四五歳)、妻きよ(三五歳)、悴竹松(五歳)
〈慶応四年一月入〉
幸吉(南部五戸、三〇歳)、妻はる(二九歳)、娘よし(一一歳)、二女よね(五歳)、三女とよ(三歳)、
 悴浪吉(慶応四年一一月出生)
〈慶応四年六月組入〉
与惣次(自立開墾、四五歳)、妻かミ(三三歳)、悴与惣吉(五歳)、弟正助(四〇歳)
〈慶応四年七月組入〉
馬吉(慶応四年七月長八より別家、二三歳)、妻かね(二一歳)
茂八(サッポロ村永住、四四歳)、妻ミわ(四〇歳)、娘すゑ(一三歳)

 以上、イシカリ御手作場として存立していた慶応二年より同四年の三カ年間、同場に入植あるいは組み入れられた農民は二三戸を数える。離村・死亡やまた出生・遅参などにより人口は変動するが、慶応四年(明治元年)末では男五三人・女四二人の計九五人であった。
 なお榎本武揚の率いる旧幕府軍が占拠中の明治二年正月から三月に至る間に、大友はなお四戸・一一人(男六・女五)の農民を引き入れているので、これらも挙げておくと次のごとくである(新規引入候農夫御届申上候書附 大友文書)。
〈明治二年一月~三月入〉
  嘉助(越後蒲原郡枚村、三八歳)、妻やい(三二歳)、娘かつ(二歳)
  与兵衛(庄内田沢村、五五歳)、妻ふき(五二歳)
  佐吉(八戸井保内村、三四歳)、妻もと(二七歳)、悴助蔵(四歳)
  平吉(津軽、五〇歳)、妻しな(四五歳)、悴岩蔵(一〇歳)