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イシカリへの情報伝達

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 ところで変転する中央での政治的動向は、蝦夷地イシカリにおいても為政者側には詳細に伝達されていたのである。それは箱館奉行所を通じてイシカリ役所にもたらされ、さらにイシカリ役所から管内の詰合や在住に至るまで廻状などをもって伝達されている。その内容は旧幕府方より発したもののみならず、新政府側の布告・通達も含まれていた。それらのいくつかを大友の手控えである『御用控』(大友文書)によって見てみよう。
 旧幕府側のものとして、例えば明治元年三月五日に箱館奉行所が手中にした目付から遠国奉行衆にあてた触書には、「京師幷大総督府エ御謝罪之儀厚被仰立候趣も有之候ニ付テハ、此度官軍江戸表へ御入込相成候共、兼々被仰出候通堅相慎決テ動揺不致、官軍へ対し毛頭不敬之儀無之、且鳴もの之儀ハ渡世之外ハ一切停止可致、此旨市中ハ勿論在々ニ到迄急度可相心得候」とあり、あるいは「(前略)人気取鎮之事ニ付此度大総督宮様御陣中え上臈御使ニ被為立候間、何卒静寛院宮様御当家之御為、深御心痛被為在候思召下々迄も致貫通、恭順之境不取失様相心得候様、厚御諭し之事御頼思召候」と、三月八日の大奥からの書付まで到来して、ただひたすら恭順を呼びかけている。また杉浦旧箱館奉行も、明治元年三月二十一日の達で、支配向一同に対し以下のように指示している。すなわち、
当地所置之儀江戸表え相伺候処、諸事穏ニ取計朝命遵奉シ、支配場所引渡之上支配向一同召連出府可致旨御下知ニ付、其心得を以御沙汰相待候事ニ候、且朝命ニ随ひ箱館蝦夷地支配いたし候於諸侯も、素より広大之場所ニ付万件取扱候ニも詰合役々無之候テハ行届間敷、重役ハ格別吏務ニ至リ候テハ事馴候もの共召仕候方可然哉と被存候、右ハ松前氏より場所引渡之節ハ同家より御抱ニ相成候人々も多分有之、且足軽ハ一同新規御抱相成候程之次第ニ候間、右之段忠告之上当地ニ在住いたし度ものハ定役元乄以下足軽手代共至迄引渡候存寄ニ候、帰郷相願候もの共ハ願之通聞届公然之取計を以御手当被成下候積りニ候、抑蝦夷地全州之儀ハ皇国外患第一之土地ニ候間、我釁(すき)ニ乗し万一渠より鎮撫を受候様ニテハ御国体ニ拘リ、天地間不可容之大罪を深く痛心いたし候ニ付、一同拙者之赤心ヲ表し土地動揺不致方市在安堵之取締肝要候

と、将来新政権のもとにおいても身分が保証されるであろうことを想定することによって、旧幕吏の不安と動揺の鎮静に努めている。
 他方、新政府からは当然恭順を要請し、また征討軍の立場や動向、あるいは新政権の機構の定立などが通達されている。このような中にあって、明治元年四月十二日に蝦夷地統轄の箱館裁判所が設置され、その達書が閏四月二十二日にイシカリ詰調役樋野恵助よりイシカリの在住の面々にも廻状をもって伝達された。引き続き箱館裁判所権判事井上石見と同岡本監輔の連名による、杉浦旧箱館奉行あての次のような書付が、イシカリ役所より廻付されている。
今般皇政復古ニ付於箱館ニ裁判所御取建、総督副総督被差置近日御下向可相成候、依之為先着、吉田復太郎、村上常右衛門、堀清之丞、右之者幷五藩人数等被差下候間、其方支配仕来候元幕府蓄積之金穀倉廩器械等、立会之上無子細引渡封印附置総督御下知を可奉待、尤是迄在番之吏士ハ御下着之上夫々御任用可被為在候間、上下一同安心致決テ倉卒之挙動無之様可被申諭候、自然拒命不恭之義も有之節ハ吃度厳重之御沙汰可及候間此段篤と相心得可申事