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岩倉とパークス

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 外務省案が示された明治二年八月十一日に「参朝……大蔵外務兵部一同唐太一件議事なり」(広沢日記)とあり、翌十二日にも「参朝、今日開拓方大蔵等出席段々評議有之」(大久保日記)とあり、早速関係諸省との協議もしくは討議がなされていったことが知れる。
 他方岩倉は、八月十三日パークスと会談、政府見込を尋ねられて、改めて、「唐太[クシュンコタンシラヌシ]両所え良民弍三百人計移住、尤開拓外務等より夫々出役、只管静謐を旨とし条理を以て応接、順序を追ひ開拓心得にて、此地えは兵隊を不渡先雑居を目的と申入候」、また「夫より宗谷に兵隊、根室に兵隊其外出役、亦石狩の事夫々申」し述べたところ、これに対しパークスは前段の樺太対応については「至極可然」とし、また後段の蝦夷地配備については「当年夫丈の御運ひ出来候はゝ実に重畳、何卒此義の不替様早々御手を御下しの様存候」旨の回答があり、加えてパークスが「一件よほと入念心配致し居候様子」(岩倉具視関係文書 四、以下岩倉関係文書と略記)と岩倉は受け止めている。なおこの席に松浦武四郎と岡本文平も同席しており、この二人の説明にパークスは大変満足して次回の会談にも出席を依頼された、と岩倉は付記している。
 この応接で岩倉が答えた北地対策の内容は、前記の外務省案をなぞったものに過ぎない。またその対ロシアの姿勢は、蝦夷各地の配備は多く兵であるが樺太は移民とするように、ひたすら条理に訴えて穏便に処するという、きわめて消極的な姿勢といわざるをえない。それに全面的に同意するパークスも、日本がロシアと積極的に対峙することを否定する態度であったことが知れる。
 岩倉はさらに同日(八月十三日)「所詮外務兵部大蔵開拓等、十日計も打寄示談に相成候ては、当年の渡海は六ケ敷」として、「寺島大隈船越にても夫々御用掛被仰付、万事一日も速に運候様被命度」(岩倉関係文書 四)と、政府部内の新しい体制造りを提唱している。このことは間もなく(同月十六日)大隈民部大輔・伊藤大蔵少輔・船越兵部権大丞・寺島外務大輔に当官のままさらに北海道開拓御用掛を命じたことにより実現した(公文録 開拓使伺)。いわば政府部内に開拓使を中心として、北地問題対策のためのプロジェクトチームを編成したのである。
 この中央政府内の北地対応体制に合わせるように、開拓使の「人撰」も一挙に遂行される。すなわち判官として、七月二十五日に民部大丞の津田橘次郎(正臣)・岩村左内(通俊)・開拓権判官の岡本監輔、八月二日に開拓大主典の松浦武四郎、八月十七日に松本十郎、それに同日竹田信順をそれぞれ任命し、先の島と共に七人の判官に増大したのである。また八月十五日に蝦夷地北海道と改称され、一一国八六郡の行政区画が設定された。