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沢長官、黒田次官案

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 大納言鍋島に開拓長官兼務を指令した直後の二年八月十八・十九日に、大久保は副島らと共に岩倉・三条に対し「只今通ニては前途目的不相立候ニ付、是非判然と可被任人ニ御任し有之度」として、開拓長官人事の「決断」をしきりに迫っていた(大久保日記)。また樺太赴任が決定している丸山作楽の、開拓長官は現地に出張すべきとの要請を、この十八日に大久保は受けてもいた(同前)。
 八月二十日に至り大久保の日記には、三条・岩倉と会し「開拓長官……之事御決議有之候」と、先の「任せられるべき人」が内定したことを告げている。それに関し翌二十一日付の岩倉の覚書には
一沢外務卿被免、開拓長官被仰付、速に函館或石狩迄出張之事
  但北海道庶務専御委任之事
一黒田了介開拓次官被仰付、専沢卿輔翼、石狩或唐太迄出張之事
(岩倉関係文書 七)

とあり、沢長官・黒田次官の人事案であった。しかも沢は函館もしくは石狩、黒田は石狩もしくは樺太と二分した赴任案である。これは北海道・樺太の開拓問題と、樺太における対露措置の問題とを、可能な限り現地で速やかに対処させるための布石と見られる。そして再度ここに「石狩」が浮上する。
 他方、同時に岩倉らは、それまで北地派遣の一人と目されていた東久世を、太政官の大弁に任用することをはかっており、それは直ちに八月二十二日に発令された。
 しかしながら沢長官・黒田次官の開拓使人事案は実現しなかったのである。大久保は八月二十三日に「参朝、御前評議有之候、蝦夷開拓種々紛説有之、段々勘考之趣有之建論いたし候」(大久保日記)と記している。開拓使人事にかかわって政府部内は紛糾していることが知れる。その実態はつまびらかでないが、たとえば吉井幸輔などは八月二十三日「西郷一条并贋金兵部此三ケ条何れも大事件、此人(黒田を指す)不罷居候ては大ニ不都合」(大久保文書 三)と、国内問題処理のため黒田の次官任命に強く反対している。これに対し大久保は、「当年ハ先一通にてよろしくと一応相きまり居候処、実ニ開拓方も紛々ニて瓦解之姿ニて、頻に沢卿黒田之処衆論相起、不得止御決議相成たる事ニ存候、(中略)若又黒田を御止ト申事ニ相成候ハヽ、開拓方ハ弥とちまり不申候」(同前)と、沢・黒田の人事内定の経過にふれ、その黒田案を中止したならば、北海道・樺太の開拓は決行できなくなるとして、吉井に理解を求めている。