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島判官の札幌本府建設着手

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 二年九月二十五日東久世長官以下が函館に到着したが、島判官は直ちに諸般手配の上、早くも十月一日に函館を出立、陸路にて風雪と寒気と悪路とに難渋を極めながら、十月十二日(新暦の十一月十五日に当たる)銭箱に着した。
 ところで本府を石狩に設けることは、開拓使設置当初から決定されていたと先述した。さらにその石狩のうちの札幌近辺に置くということも、実はすでに決定ないし想定されていたと見られる。それは十月二十三日付の島の松浦判官宛書簡(市史 第七巻)、また十月二十九日付島の岩倉大納言宛書簡(岩倉関係文書 四)に、全く同文で、「同(十月)十二日銭箱表へ到着、兼テ伺済ノ通リ札幌辺へ官舎并役邸等取建、開拓ノ御規(ママ)礎早速相立候心得ニ御座候」と記されている。島らが本府建設着手のため真直ぐに銭箱を目指したこともその現れであろう。目的地の論議は全くなされていない。本府建設のため海路物資を送り込む地として、銭箱が最も札幌に近接していた。かつて石狩のこの札幌を本府の地と想定し、それを強く主張していたのは松浦武四郎であった(市史 第一巻四編一〇章)。開拓使本府建設の構想は終始松浦によってリードされていたといえよう。
 さて島は、この銭箱に開拓使銭箱仮役所を設置して、まず札幌における本府予定地の選定をもって開始する。その地に関し十月二十三日付の松浦宛書簡で次のように島は報じている。
今般府ヲ可取建場所ノ義ハ、銭函ヲ去ル事四里ヨ、手宮ヲ去ル七里余、又石狩ヨリ凡五里ヲ相隔、四方広莫タル平原ニテ地勢最絶妙、又手宮ノ如キハ実ニ御地ノ横浜ニモ相増リ可申、往々開拓ノ実功相立候上ハ、必ス一都府ヲ成スノ勢ヒ顕然ト被存候、誠ニ松浦君御見込ノ如ク、蝦夷地ノ内此所ヲ除キ又外ニ可求ノ場所絶テ無之ト存候
(市史 第七巻)

かくして冬季に突入して厳寒の中、極度の米穀・物資・人夫や財政等の不足と、また兵部省との確執に苦闘しながら、本府の建設を推し進めていった。これらの状況については後述する。