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兵部省の田城国支配

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 二年七月八日の官制改革で、軍務官兵部省と改称されまた開拓使が設置された。その直後に兵部省は改めて「会津降伏人始末荒目途」を作成している。これによると、会津降伏人総数一万七〇〇〇人のうち、二年に四〇〇〇人、三年に八〇〇〇人、計一万二〇〇〇人を蝦夷地に移住させる計画で、家屋三〇〇〇戸(一戸当たり四人)や廐の建築に農具給与を含め、その費用四六〇万円(八カ年賦)と米高九万石の下付を要請し、また以下の上申をしている。
田城国一円当省へ御委任ノ御沙汰被成下度候事
但兼テ当省へ被相任置候石狩小垂内等ノ部落、今般改テ田代国ト相成、且又万事開拓使へ示談処置仕候得共、一円一手ニ御委任無之候テハ、降人扶助一偏ノ取扱ト違ヒ、土地開拓遂ニ彼等生産之道モ為相立候ニ付、万一開拓方ト大同小異ノ議出来候節、政令二途ニ相出候姿ニテ、彼ノ地エ出張ノ者共当省ヘハ遠路隔絶其時之指揮モ難受、処置迷惑ニ相及甚不都合之義モ可有之、尤引移候者多少之人員ニ候得ハ数十里之間ニ散居為仕候ニ、他管轄ト犬牙相難候テハ自然政令不行届ニモ可相至、依テ右一円御委任被成下度候事
(開拓使公文録原本 道文五七〇二)

 これは要するに、大規模な移住開拓を進める兵部省が、過ぐる二月二十日軍務官に与えられた分散する部落単位の三地では、開拓上また行政上障害が生ずるおそれがあるので、石狩・発寒・小樽内一帯の一円支配を願い出たものである。これに対し政府は「窺之通」とし、ただ開拓の大本については開拓使と協議すべきことを指令している。
 ここで興味を引くのは、当初の石狩・発寒・小樽内を含む一帯を、「今般改テ田代国」としたことである。「田城」「多城」とも表記されているが、その地名はこの時期の兵部省にしか使用されていないようである。これは蝦夷地にいまだ国郡の行政区画が設定されていなかったため、集落的地域を超えた広域一円を表現するため、兵部省が便宜上独自に付した地域名であろうと解する。兵部省が開拓を目指していたので田地の意の「田代」、また開拓と共に降伏人による蝦夷地警備をも意図していたので、それを象徴して田と城の「田城」、あるいは多くの開拓集落を軍団と見て「多城」などとでも考えたものであろうか。