第二に島判官は、勇払役所の黒沢権大主典へ勇払郡の備米を札幌へ送るように要請した。そのため勇払からは十二月末に四〇俵を送るのを皮切りに、三月に三斗入八〇俵(二四石)、三斗入七〇俵(二一石)、三斗入一三〇俵(三九石)、四月三斗入一九俵余(五石余)と、勇払で確保している米を十二月から四月までに五回に分けて三三九俵余(一〇一石余)を札幌へ送り込ませている。特に十文字大主典は三月十七日に「去冬以来、当表御手支之状態、厚く御察も相成居り候由之処、手筈岐望罷在候昇平丸ハ沈没致し、相続て又一隻御座共ニ同断、過ル八日、岩村判官エ罷出候処、御何方ニも殆と困迫相眺」という状態であり、「最早暮春も半を過し候共、内地之船も一切来着之模様無之、唯ニ其表より御差廻しを相待而已ニて」と黒沢に吐露している。それほど札幌の米不足は深刻であったのである。前述の通り諸郡の備米はかなりの割合で調達しており、あとは勇払等の東地だけが頼りの状態になっていたのである。
そしてこの東地からも米だけでなく、やはり人足としてアイヌの人びとを沙流郡(一一人)や勇払郡(四人)から札幌へ送り込ませている。春漁が始まる三月にはその漁場人足などとして必要になったため、勇払の黒沢から帰郡させてほしい旨を申し入れている。特に東地は多くを諸藩に分領しており、春になり諸藩の役人たちが入り込んできたため、不都合が生じてきたのであろう。しかし四月十二日の時点では、沙流郡へは全員帰郡したが、勇払郡へは帰郡していなかった(各所往復 函図)。東地からの札幌への人員の送り込みはこの一五人しか確認できないが、やはり札幌での建設用の労働力調達と物資調達にともなう見返りとしての場所の人員削減ではないだろうか。