ビューア該当ページ

島判官の専断

54 ~ 56 / 1047ページ
 ところで東久世がその処置を求めざるを得なかった、島の独断専行の行為とは何であったのか。東久世日記の文面からとると「本府建築」と見られる。しかし本府の建設自体は、政府においても長官においても容認している事業であり、専断とはいい難い。また本府建設による「金穀空乏」の事実も、先述したように、そのような事態を招くほどの事業は展開していない。
 それでは本府建設に限定せず、「嶋判官在西地」とある、彼の処務である西地経営における専断であろうか。実際この西地において島は、物資の調達や人足・移民の徴募、永住人や出稼人の保護、新川切開、銭箱新道や黒松内山道の普請、岩内石炭山経営、江差海官所の設置、場所請負人の廃止と直捌制の実施、西地産物の集荷等、多岐にわたり着業もしくは準備を進めていた。これらの件々についても、専断の行為として特筆されるものは少ないのであるが、一つ、場所請負人廃止と直捌の問題は、函館本府の方針と齟齬しており、請負人たちとの間で軋礫が生じた。
 場所請負制は二年九月二十八日に廃止されたが、これに対し西地請負人をはじめとして各地で反対運動が起こり、開拓使は十月二十九日請負人名目を漁場持と改め、その漁業経営は従来通り認めることとした。ところが十一月末に銭函に来た西地一三郡の請負人たちに島が指令した内容は、場所請負人の廃止と官による直捌の採用であった。これに対し請負人たちは容易に納得せず交渉は続いたが、その衝に当たっていた銭函の十文字龍助開拓大主典は、十二月二十三日島に対しその情勢を次のように報じている。
被相廃候請負人支配之者共段々申立ニ付説得之次第概略ハ申上置候処、右之者共爾後御処置之義今般之御趣意柄に於て大事件と奉存候、実以騎虎之勢有之模(ママ)稜之手を持し候折ニ無御座、乍去今日之御場合何分切直に御処置相附兼候事ニて少敷模(ママ)稜に相渉リ居候得共、大段落を定メ候義無之候ては此御場合ニ付ても尚以不相叶と奉存候
(十文字龍助関係文書補遺)

 函館本府の方針と異なる島の指令に対し、請負人達が執拗に迫り、最早「摸稜之手」(どちらつかずのあいまいな態度)ではどうにもならないと十文字は慨嘆している。さらに請負人らは函館本府にも訴え出たようで、大きな問題に発展した。三年二月十三日付で、上京中の東久世は「西地之形勢急々御取しづめ取締相立候様御頼致し候」と、函館の岩村に指示している(岩村通俊関係文書)。この事件の全貌は十分究明されていないが、これなどが函館本府の下知に応じない島の専断と考えられようか。