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樺太開拓使の設置

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 樺太における日露間のさらに緊迫した状況の中で、上述のような外交的対応の進行と平行して、国内における北地経営問題の論議も新たに展開しつつあった。それは三年一月の開拓使伺書の一項にあった、樺太はロシアとの折衝を必要とする重大な地なので外務省が管轄すべきとする開拓使の意見に始まった。一月十七日に上京した東久世長官は、即刻岩倉大納言に、樺太は函館より「隔絶ノ地ニテ諸事不便宜ニ有之、追々奏功ノ目途難相立」として、樺太を他の機関へ移管すべきことを上申した(公文録 樺太開拓使伺)。さらに二十二日に左の通り建議している。
樺太官員開拓使管轄有之候処、彼地金穀不足ニ付申立候箇条万端函館表ニテ承知不仕甚不都合有之候、加之外務官員出張ノ事故他省へ意味モ通兼申候、是迄通管轄被仰付候共金穀唯今通御渡方ニテハ樺太官員実効致方モ無之、函館表ヨリ相廻候儀モ調兼候、右ニ付管轄実地相施候至当御処置御指揮願度候事
(同前)

これら開拓長官の意見では、特に外務省とは示していないが、樺太を開拓使管轄から分離して他省庁へ移管すべきことを陳述している。
 加えて、昨二年中に丸山の指示で帰京していた堀開拓権判官(二年十一月二十日大主典より昇任)と東開拓大主典は政府の尋問に答えて、樺太は冬季航行不能の隔絶の地で、かつ露人在留し、万一非常の事態が生じてもその指揮を受けようがなく、その対応として樺太に「別段長官被差置方可然儀」と、樺太専務の長官配置の意見を述べている(同前)。
 以上のような、丸山をはじめとする樺太派遣の現地官員ならびに北地を総括する開拓使などの、強い樺太分離論に対し、政府からは「丸山大丞岡本判官等被召返候上ナラテハ廟議御一決不被為整旨御達」をみたが、しかし東久世はその議に肯んぜず、「内地ノ小県ニ知事ヲ被置候テスラ一治無事ノ道未タ難被為行届御時節ニ候処、世界第一等ノ強国切迫ノ地ニ百里外ヨリ無実ニ管轄被仰付候儀ハ如何ノ廟堂ニ被為在候哉、通禧ノ未タ解セサル処也」(同前)と、さらに激しく樺太分離を主張した。
 ここに政府もついに三年二月十三日「樺太地方ノ儀ハ別ニ使ヲ被建候間、自今不及管轄候事」(同前)と開拓使に指令し、樺太を分離して新たに樺太開拓使を設置して、開拓使の管轄は北海道に限定されるに至ったのである。