開拓使の経費は定額の米・金を基本とし、それに管轄地内より徴収する各種租税や各種益金も、開拓使経費として繰入支消することが箱館裁判所以来認められていた(ちなみに島判官が性急に実施に踏み切った、場所請負の廃止と直捌制は、一面で漁業経営における利益の官による独占的確保を意図したものであるともいえる)。基本の定額の金穀は、新生間もない政府自体が財政窮乏下にあって、いかに重大な北地開拓といっても飛躍的増額は望むべくもなかった。そこで開拓使は、一方で開拓を促進して租税の増収と的確な把握を図ると同時に、当時主なる租税は現物納であったところから、他方その税収品目の売却益の確保をも求めた。そのために蝦夷地商品の流通機構として箱館奉行が設置して以来なお存していた函館産物会所を必要としたのである。
三年一月に島判官の罷免を求めて上京したという東久世は、直ちに樺太分離問題と共に、その時期民部省通商司に所轄されていた函館産物会所を開拓使に移管する運動を展開している。二月十一日付の岩村宛書簡では「会所如元開拓使へ引受候儀は江藤(新平)中弁同意にて大に尽力御座候間、是非々々会所当使引受に相成候様尽力可致積り御座候」とか、同十三日付の同じく岩村宛書簡では、民部・開拓合併反対論とからめながら、「付ては別段百万両か或会所御渡被下、諸産物惣て開拓一手にて相扱致度と申立、民部省へ今日より懸合候積り」とそれぞれ東久世は報じている(岩村通俊関係文書)。別途一〇〇万両の支給と函館会所の移管とを天秤にかけて、移管を要請しているのである。
これら東久世の運動が功を奏し、政府は三年三月十二日に東京・大阪・敦賀・兵庫・堺にあった函館産物会所の通商司から開拓使への移管を指令するに至った。なお同会所は同年五月その名称を北海道産物会所と改めると共に、会所規則を制定し、また会所を東京・大阪・兵庫・横浜・長崎・新潟・那珂湊・撫養に置いた。