開拓使は、三年二~五月の岩村判官の巡視で得た情報をもとに、七月「衆議紛々」を理由に、札幌への本府建設を中止した。一方六月東久世長官が東京から函館に帰還する。八月十一日東久世長官らが、「為東西場処巡見」函館を出発する(東久世日録)。岩村判官は東久世長官を送った後、九月末から上京した。そして閏十月四日頃東京を出発して函館へ帰ってきた(開拓使公文録 道文五七〇三)。その間十月九日に函館の東久世長官のもとに岩村判官から「東京表申立之廉大上都合のよし」という連絡が入った(東久世日録)。このことから三年十月三日付の伺や予算書(市史 第七巻六七頁以降)は、岩村判官が東京へ持参して太政官と交渉したものと考えられる。その「北海道開拓ノ儀ニ付左ノ件々奉伺候」などでは、札幌の本府建設について、「札幌建府ノ儀、何分急速目途難相立候得共、先般許多ノ人民移住為致候間、戸口蕃殖ノ上漸次相運ヒ可申候事」となっていた(府県史料 国公文)。三月の岩村判官の考えや七月の達に沿ったものであった。このように消極的な方針になったのは、大蔵省からの予算の目処がたたないことで、かせをはめられたためであろう。
ところが一方では、黒田次官は樺太巡視後さらに西地も巡視し、函館に十月六日に着いた。そして十月十六日に離函するまで、七、十一、十二、十三、十四、十六日に東久世長官と会っている。そして樺太へ渡す金の支払方などを相談している(東久世日録)。その後上京して十月建議を提出している。おそらくこの間に東久世長官は伺として出した方針について、また黒田次官は自分の建議の内容について、お互いになんらかの相談をしたと考えられる。そして黒田次官の十月建議により、石狩鎮府再建の道が開かれた。