小貫権大主典と平田少主典は、酒田をたちこのあと新潟へ向かった。両名は二月五日付の東京への報告で、「越後路よりハ一層移民為致候積」と書き送っている。しかし、この間に開拓使の方では、「先日以来長官御出京ニテ開拓仕法改正御見込之趣御建議有之」という理由で、一層移民之積りその儀は当時御差止」(開拓使公文録 道文五七〇五)と、移民募集に重大な変更があった。この通知が東京から酒田県あてに発せられたのは三月七日で、すでに新潟入りしている両名のもとに届いたのは四月十二日であった。
通知が届くまでに、すでに新潟でも移民の募集は終わっていた。「移民之儀羽越より相募候分都合四百名程酒田、新潟より差立出帆済被成、今更致方無之御不都合之儀は申上様無御座候」(市史 第七巻一九頁)と、両名は返答を送るよりほかなかった。「開拓仕法改正」は島義勇判官への出京命令と関係をもつが、その後「改正」された形跡はない。
新潟での移民募集の様子は小貫権大主典の報告が詳細に伝えている。それによると新潟では当初水原県庁に行き交渉したが、「移民ノ件等ニ到テハ分テ捗取兼(はかどりかね)」たので、平田少主典は柏崎、三根山、長岡、三条などに巡回して募集したという(市史 第七巻四三頁)。水原県、柏崎県などでは、すでに小貫・平田の両名が入る前の二月に、開拓使の移民募集及び移住勧奨の通達が県下に発せられていたが応募はなく、平田が自ら巡回して募集をまとめたようである。
この中で募集に応じたのが、庚午四ノ村(札幌新村)に入植した刈羽郡出身の二二戸九六人である。このうち原伝左衛門、高橋勘左衛門、小熊善右衛門・亀之助、歌代奥四郎・亀太郎らは県南部の松之山町(現東頸城郡(くびきぐん))から一行に加わっている。彼らは松之山町大字天水越(あまみずこし)とその周辺の人びとで、農業のかたわら鋳物師(いもじ)として鋳金業をおこなっていたという。しかし明治維新後は、鋳金業が行き詰まったことが移民応募の原因となったようである(東区拓殖史)。
小貫の報告ではこの当時の新潟県下は、「従来窮民多く有之候処、昨歳兵乱後打続候凶作尚一層之貧苦ヲ極メ、各其管轄之藩県ニ歎願して救助ヲ乞ふもの数百人」という状況であったが、しかし「奮発して彼地ニ移住せん事を願ふものは到て無之」(市史 第七巻四三頁)と報じている。まだ北海道の様子がほとんど知られていない時期だけに、経済的貧窮がすぐさま移住には結びつかず、移民募集には苦労したようである。