明治三年五月、開拓使は木村万平、伊坂市郎右衛門、宮辺長七の三人のほか井筒屋木村伝六、東京為換(為替)店榎本六兵衛を御用達とした。木村万平、伊坂、宮辺らには物資の輸送並びにその売り捌き方を命じている。六月木村万平は東京に回漕会社を起こして、開拓使から汽船庚午丸(六四一トン)並びに小樽石狩篠路の官庫を借り、小樽に中継所を設けて大竹作右衛門に担当させた。また創成川沿い(南一東一)に運漕店を設け、伏木友七、大谷長七を派遣して輸送物資の荷役を取扱わせた。庚午丸は三年十月厚岸で難破したため、万平は四年五月修理の終わった咸臨丸を開拓使から借り、ついで九月辛未丸の取扱いもしている。
小樽から札幌まで米一〇〇石の運賃は一番高い時には一〇四円で、その後は九三円であった。さらに運送取扱いの店々には月手当として二〇〇円の下金があった。このほか一俵につき二升の升切れが公然と許されていたため、一〇〇俵の米の運送で五俵の所有となった。さらに一〇俵くらいは紛失として、金穀掛へ渡す時に、不足米はお払い米に願いますと頭を三、四度下げて処理してもらったという(さっぽろ昔話)。ほかの物資輸送についても同じような処理がなされていたようである。
このような物資輸送の事情は、札幌市内の物価高を裏付ける結果ともなっていたが、こうした官庁依存型用達に対する整理は、七年の国内多事に際して実施されている。