岩村判官は、明治四年(一八七一)一月九日東久世長官から「札幌出張申付」けられた。そして十五日幌泉の検分を兼ねて札幌へ出発する。二月五日幌泉に到着、十一日に札幌へ到着した(東久世日録)。一月九日の札幌赴任命令であるから、広川大主典が持参した西村の七カ条伺を含んでの岩村判官の派遣である。西村の七カ条伺は、全条「可為伺之通候事」であるから、岩村判官はそれに基づく事業を最上位で監督する立場になる。しかし西村の七カ条伺はその通りに実行されたとは言い難い。とくに土木工事については、新川の
銭函への計画は中止され、松前・函館などからの商工民たちもその移住地は、島判官の『
石狩国本府指図』の形態ではなく、新たに
碁盤の目状に形つくられた形態になった等変更されている部分がある。そしてその中で最惑大きな変更は、
本府(本庁)地の変更である。これは、岩村判官が札幌に着いた後に変更した可能性が大きい。
写真-3 開拓使官員
左から黒沢大主典,西村監事,岩村大判官,岩藤大主典,朝山大主典(『札幌区史』より)