この札幌の碁盤の目状の区画がどのような考えに基づいてなされたものかは、現段階では明らかにならなかった。今明らかなことは、島判官の『石狩国本府指図』ですでに官地はその形態に類似したものになっていること、次いで西村権監事たちの『札幌表御用取扱向等伺書』でもその区画を踏襲していること、岩村判官の経営の時代になって区画が実行された時には、すでに碁盤の目であったことなどである。
ではなぜ島判官以来西村権監事たち、さらに岩村判官にいたるまで、その碁盤の目の区画またはそれに類似した形態を都市としての本府の基本形態と考えたのであろうか。それには、近世を代表する都市である江戸(東京)などの形態がその参考例となる。江戸(東京)もその絵図をみると、札幌のように正確な碁盤の目状ではないが、すでに長方形や正方形を積み重ねた区画になっている。この区画は、近世初期に徳川家康が江戸の建設をはじめた時に、豊臣秀吉によって改造されていた京都の町割を引き継いで、碁盤の目状の町割を基本形態としている(講座日本技術の社会史第七巻)。また絵図などから見ると、会津若松、広島や姫路でも町の区画はやはり長方形や正方形を積み重ねた区画になっている。これらの近世の都市は、その起源として京都を基本形態として都市造りを行っているのであろう。そのような意味で近世都市は、古代都市平安京を基本に形成されてきた京都を基本にしているのであろう。しかし、だからといって碁盤の目の形状の継承を理由に、札幌の区画を遠く古代の平城京や平安京の区画にまで遡る必要はなく、より近い近世の城下町を基本に構想したと考えた方が自然のように思われる。
では札幌の町区画を『札幌区劃図』のように構想したのはいつであろうか。前述のように西村権監事は、まだそこまで構想はしていない。おそらく地形のよく見えない冬に本庁建設予定地の状態を見ても、本庁の位置を変更するにはいたらなかったと思われる。西村の七カ条伺にそれを示唆する部分がないことからもそう思われる。やはり岩村判官が来て、さらに雪解け後の状態を見て本庁地の変更を決定した以降のことと考えられる。そうすると六番官邸を建設しはじめた二月と、空知通に少主典邸を建設しはじめた四月の間にその変更がなされた可能性が大きい。したがって、『札幌区劃図』の民家は計画変更以前に居住していたものがいるから、区画からはみ出しているものもあるのである。