まず原形は、やはり島判官の『石狩国本府指図』である。その本府前の官舎役宅は二列に描かれている。地形の関係で本府地を北の端に設置できないため、官舎役宅の列の西側の部分を、最南端を中心に九〇度西へ回転させた。それが後の大通北側の官宅の列になる。そして、そのために空間となった地域に北端にあった本府地を移動させた。本府地官宅地と民地とはやはり区別した。民地の区画は、近世以来の伝統的都市構造で区画した。または『石狩国本府指図』の本町のように長方形で描けば、自然に碁盤の目状ないしはそれに類似した区画を意味していたものかも知れない。また、町民に割渡された間口五間・奥行二七間を基本とする細長い単位は、やはり近世の都市の地割と同様である。以上のように岩村判官は、島判官の『石狩国本府指図』をもとに碁盤の目状の町割を構想したのではなかろうか(図1)。
図-1 岩村判官の本府構想図(推定)
しかしその区画は、後の札幌の地図や現在の区画とは西一丁目の区画が違っている。この後さらに変更されたことになる。その再変更の事情はお雇外国人の影響が考えられるが、詳細は不明である。