明治五年三月二十六日、移民たちの家作や移住地・入植地に関係する仕事をする開墾掛の『細大日誌』(市史 第六巻)に、「山火為予防、官員一同出張、ガラス邸前辺より脇本陣近傍本願寺より薄野辺ニ有之辛未移住民明小屋、不残焼払、午後五字十分引揚候事」、また岩村判官が「邸外茅野焼き払いとして、官員一同出張、八時より始まり五時引取り」(公務摘要日誌)と記している事件が起こった。これは俗に「御用火事」と呼ばれる事件である。この事件については、市中へ移住して来た商工民の家作に問題があったために起こされた事件であるという話が残されている。しかし開拓使が移民の家作を問題にしているのを史料的に確認できるのは、貸与された家作料の返納が滞ったことを問題にする八年以降である。また家屋改良の方針が示されるのは九年九月であり、その場合も家屋が草小屋か板小屋かではなく、耐火・耐寒のための家屋改良である(布令類聚)。またこの御用火事が起こった頃に、開墾掛や岩村判官の記録類に移民の家作に問題があるという記述は発見できなかった。以下にこの事件を札幌での本府建設との関係で考察してみよう。