しかし四年春に移住を開始して僅か一年しか経過していない五年春にも、すでにこれと同様の状況があらわれている。その時開墾掛は、廃止になった貸付金の復活を上申した。それによると「市街ノ体ヲ具へ候得共、北海道之内、独り此地而已漁塩之利無之ニ付、其生計容易ならす。二千戸ニも至らす候テは、当府中ニ於テ、互ニ生計相立候義ニハ難立至、自然小樽石狩辺エ出稼致し、終ニハ彼地へ転住候様可相成」という状態だから、移住後しばらくの生計をたてるためにも、移民を募るためにも、貸付金が必要であると陳述している(開拓使公文録 道文五七三四)。この開墾掛の言い分は、開拓地としての状態を示している。貸付金がない以上、恒常的な公共投資が必要になる。職人人夫たちを多く集めた島判官が、厳寒期に札幌本府建設を強行しなければならない事態と同様である。開拓地でありながら、公共投資がない状態になるのは冬である。五年のこの状況に対してとられた措置が、市民への商業勧奨の市中布告である。それは、工事の着工と共に多くの職人たちが入り込んで市中が繁盛するから、酒醤油など今まで開拓使が調えていた商品を自分たちで仕入れをして、商業で生計をたてるように市民に奨励したものである(評議留 道文四二七)。五年春にも市民を定着させるための算段が考察されていたのである。これは四年から五年への冬を過ごした移民たちが、市街を離れたことへの対策を含んでのことと思われる。それと同じ状況が六年春にもあらわれたのである。昔話の「五割商人」のためというよりも、産業もない開拓地である札幌に自然に起こる状態と考えた方が良いようである。それに加えて六年の札幌の建設はその速度を遅らせた。五年から六年への冬は、自然状態に加えて人為的な不況状態を引き起こしていたと考えられる。
六年初めまで札幌にいた市民たちは、すでに事業のない札幌の冬を経験していたのである。さらに六年で本府の建設が一段落することを見越して、市民たちの多くは札幌に見切りをつけたのではないだろうか。おそらく雪解けと共に市中での工事は始まったが、逆に市民たちは雪解けと共に札幌を離れていったのであろう。そのためこの六月にはすでに役人たちが深刻になるほど市中の状況は悪化していたのである。