この不況の最中の六年十月、開拓使の本庁舎が完成した。そして十二月初旬から市民への参観を許可した。この本庁舎の起工は五年七月である。しかし本庁建築のための地鎮祭と上棟祭が行われたのは六年七月である。この時間の経過から見ても、この工事は順調に進まなかったことがわかる。前述のような石材の不足問題での工事進行の遅れの他に、工夫たちの暴動や遊廓打ち壊し、そして札幌会議後の開拓使内部の大幅な人事異動、さらに本府建設方針の変更などと五年後半から様々な事件が起こった。そのなかで六年七月からの工事再開である。しかしその工事中断の過程で、本庁舎は、石張り造りというはじめの計画は変更されて、板張り造りとして完成した。この計画変更の大きな原因は、前述の石材の誤算であろう。
この本庁舎は現在の北海道立文書館(明治二十二年竣工の北海道庁庁舎、俗に赤レンガ庁舎)の北に位置するところに建設された(現在は記念碑がある)。
設計者は『開拓使事業報告』によると、「其構造ハ『ケプロン』ノ計画ニシテ」とあるが、他にホルト設計説などがある。現在では、図面の寸尺の記入から、ケプロンなど御雇外国人のデッサン(口頭か絵図など)を参考にして、日本人技術者が設計図を作成した説が有力である(遠藤明久 開拓使営繕事業の研究)。この点については以下のことが参考になる。五年の工事の開始に際して、札幌から「本庁ヲ始御役邸ニ至迄西洋作御取建御約定」のために、東京でさらに二〇〇〇人ほどの職人を雇って札幌へ送り込んでほしい旨を黒田次官へ申し入れている。そのなかには「西洋作り心得候もの」として大工棟梁六人が入っている(開拓使公文録 道文五七三〇)。注文通りの大工棟梁らが雇われたかどうか確認できないが、遠藤氏の指摘通り札幌本庁舎の設計は、その構想にお雇外国人が関与した可能性はあるが、設計そのものは日本人技術者であると考えても無理はないと思われる。しかしこの開拓使本庁舎は十二年一月十七日屯田局の煙突部分から失火して焼失した(本庁焼失一件録 道文三〇五八)。