ケプロンが来日したのは明治四年七月七日(陰暦、以下五年十二月二日までの年月日はこれにならう)である。この時期にはすでに札幌本府の建設も進捗しつつあって、東久世長官は四月二十九日札幌に移転し、また本庁としての開拓使庁も五月には札幌に開庁していた。来日間もないケプロンは八月十三日、素早くアンチセルとワーフィールドに北海道の実検を命じた。この命令書には「今般足下等ヲシテ始テ北海道ヲ観察セシム。足下等彼ノ地ニ到着セハ、宜ク下件ニ注意スヘシ」と書き出して、以下その注意すべき件々について指令している。
それは第一に、北海道の「鉱山及ヒ市井ノ模様ト、函館ヨリ札幌ニ至ル迄ノ地形ヲ測量」することである。第二に、「開拓使庁及ヒ農学校等建築ノ場所ハ勉メテ思慮ヲ加へ」るべきとし、さらにその「場所」に対して「思慮」を加えるべき事項として、地質・天然・造築すべき水路の検査、土地・天然の産物の採取すべき場所、樹木の大小と寡多、食料の補助となるべき草類等の実検、それに動力として利用すべき流水の分量・強弱の精細な測量を挙げている。第三として、札幌の近傍に関し、有益な港を開くべき海口の存否、そこと札幌の間の地質と鉄道・道路造築の難易を考定し、また空気の疎密・土地の乾湿を綿密に試験し、さらに近傍鉱山の品質と開採費用の巨細な試検を指示しているものであった(開拓使日誌)。
以上の命令内容をみると、ケプロン来日最初のこの事業は、いうならば札幌の本府としての妥当性を諸方面から検証することに主たる目的があったといえる。またこのことから考えると、このケプロンの指令はさらに、本府としての確認を得るため黒田次官の指示によったものとも推測されるのである。