上述のように、ケプロンが命じた札幌本府の実検結果は、ワーフィールドとアンチセルの間に相反する要素を含んでいた。すなわち札幌に置かれるべき本府は、ワーフィールドは本然的に適当とし、アンチセルはそれを不適とした。また札幌の外港としての小樽に関しては、一方は時期的制約はあるとしても良とし、他は不良としている。しかしながら、積極的・消極的の差はあるにしても、札幌を本府と敢て容認する上には、ワーフィールドもアンチセルも、共に室蘭港との連結を必須条件としていることは一致していた。
さて両者の報告を受けたケプロンは、その意見を勘案しながら、四年十二月八日札幌本府に関する最初の報文を開拓使に提出している(開拓使日誌)。ここにおいて「全道中別ニ是ニ換ユヘキノ地形ナシ。故ニ先ツ首府ヲ此地ニ建テ、更ニ其地形ヲ改正シテ良好ト為スノ方策ヲ述フ」として、第一に札幌・篠路間に車路を設けることを当面の緊要とし、次いで「札幌ノ海関ト為スヘキ地」である室蘭との間に良好の道路を築造することは「最大緊要タルコト論ヲ待タス。速ニ之ヲ起業スルヲ要ス」と論じ、さらに「時機ヲ俟テ鉄道ヲ設クヘシ」と付言している。室蘭港をして札幌の本来的外港と想定しているのである。小樽に関してはなんらふれていない。
これを見ると、ケプロンの札幌本府観は、両者の意見を採用しつつも、どちらかといえばアンチセルのそれに傾いた結論であるといえる。ただケプロンとアンチセルの見解の異なる点は気象に関する判断で、アンチセルがその実検で寒冷としたのに対し、ケプロンは別の報文で、アンチセルの報告とスミソニアン・インスチュチュートのデータを比較検討して、札幌の気候を温暖と判断したことである(開拓使日誌)。この判断は翌五年以降のケプロン自身の来道によって検証され、六年九月六日のケプロン報文に「実ニ両年間本島ヲ巡回シ、風土ヲ親シク観察セシニ、其地味膏腴ニシテ気候温和ナル、世上ノ臆断スル所ト大ニ異ニシテ、彼大博士(アンチセルを指す)等ノ、此島ハ半寒帯ノ内ニアリテ磽瘠ノ地ナリト云フニ全ク相反セルコト、疑ヲ容レザルナリ」と記している。なおケプロンとアンチセルの間には、五年春にアンチセルが不法な給与の増額を要求したことに端を発して確執が生じ、以降ケプロンはアンチセルを無視する結果となった。
かくてケプロンは来道のたびに本府としての札幌に確信をもち、その建設に各種の面から助言・指導して、その発展に寄与していたといえるのである。